2013年10月30日水曜日

地番と住居表示

司法書士の岡川です。

登記や裁判の手続きにおいて土地を特定する場合、「地番」というものが使われます。
例えば、○○市○○町(○丁目)という区域の中にある、ある土地を特定する場合、○○町(○丁目)の後に、

「○番○」

という番号が付けられます。
これが地番です。


また、「所在+地番」という形で土地の場所を表示する場合、「○番地○」というふうに書かれます。
例えば、「ほげほげ市ふがふが町一丁目2番地3」みたいな感じです。

公的な書類などで、こういう記載を見たことがあるかもしれません。
一見すると住所と同じような表示ですが、これは住所とは異なります。

「所在+地番」がそのまま住所として使われていることも少なくないですが、市街地における住所は、地番を使わずに「住居表示」という方法で表されることが一般的になっています。
住居表示の場合でも、「○○町(○丁目)」といった町名や「○○通り」といった道路名のあとに、番号が付けられますが、この番号は地番ではありません。

大まかな見分け方としては、

「○番○」とか「○番地○」となっていたら、それは「地番」
「○番○号」となっていたら、それは「住居表示」

ですね(省略されずに正式な表記をされていれば、の話です)。


自分の家について登記などの手続きをとったことがある方は、「○○町」とか「○丁目」の後に、住所と違う数字が書かれていて不思議に思ったこともあるかもしれません。
例えば、「ふがふが町一丁目2番3号」という住所の家があっても、その家の土地の地番を調べてみれば、「ふがふが町一丁目1872番」というふうに、全然違う数字になっていることがあります。

これは、家の住所は住居表示で表記されているためです。
地番と住居表示は付け方が違うので、番号が必ずしも一致しないのです。

なお、地番がそのまま住所に使われている場合であれば、地番と住所の番号が一致します。
例えば、「ぴよぴよ町」に「3番4」という地番の土地があるとして、その地域に住居表示が実施されていなければ、その土地上の家の住所は「ぴよぴよ町3番地4」となります。


ややこしいですね。

では、何でこんなことになっているのでしょう。
という話は次回

では、今日はこの辺で。

2013年10月27日日曜日

法律一発ネタ(その4)

司法書士の岡川です。

「兄弟姉妹」を「けいていしまい」と読むことも多いようだが、少なくとも私は、「きょうだいしまい」としか読んだことがないです。

では、今日はこれだけ。

2013年10月26日土曜日

故意犯処罰の原則

司法書士の岡川です。

刑法の原則のひとつに、「故意犯処罰の原則」というものがあります。
原則として、故意がある場合のみが犯罪として処罰されるという原則です。
法律の条文に「故意に」などといちいち書かれていなかったとしても、原則として故意を要件としていることになります。

これは、刑法38条1項に規定された実定法上の原則でもあるのですが、そこには、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない」とあります。

「法律に特別の規定がある場合」というのは、基本的には過失致死罪などの「過失犯」を想定しています。
過失犯は例外なので、一般的に過失犯より故意犯のほうが重いと考えられています。

なお、法律に特別の規定を置いたとしても、無過失の行為を処罰対象とすることは許されないと考えられています。
故意も過失もない行為を処罰してはいけないとする原則を、責任主義の原則といいます。


故意には、確定的故意(「あいつを殺す!」といったもの)だけでなく、不確定的故意まで含まれます。
不確定的故意の例としては、「死ぬかもしれないけど、死んでも構わない」というものがあります。
いわゆる「未必の故意」といわれるものです。
故意の成立には「結果発生を認識し、認容していれば足りる」という考え方であり、これを「認容説」といい、判例・通説となっています。

逆に、「死ぬかもしれない」とは認識していたけれども、その結果を認容していなかった場合は、「認識ある過失」といい、これは過失犯になります。


故意とは何か・・・という問題は、単純なようで、実は学説を二分するような(それはもう、「流派の違い」といってもよいくらい)、犯罪論の中でも最重要の論点だったりします。
なので、キリがないのであまり深く立ち入ることはやめておきます。

では、今日はこの辺で。

関連
法の不知は害する
違法性の意識

2013年10月23日水曜日

覚醒剤密輸を「知らなくても有罪」?

司法書士の岡川です。

今日、こういうニュースがありました。

覚醒剤運搬役「知らなかった」でも有罪…最高裁(読売新聞)

覚醒剤密輸の「運搬役」として覚醒剤取締法違反に問われた英国籍のロバート・ジョフリー・ソウヤー被告(56)について、最高裁第1小法廷(横田尤孝(ともゆき)裁判長)は21日の決定で、「覚醒剤が入った荷物の運搬を委託された者は、特段の事情がない限り、密輸組織の指示を受けたと認定すべきだ」との判断を示し、被告の上告を棄却した。

記事の検討に入る前に、まず、このタイトルどう思いますか?
私は、一瞬「そんな馬鹿なことが!?」と思いましたが、実際、そんな馬鹿なことはありませんでした。


覚醒剤取締法違反は、故意犯です。
なので、知らなかった場合に犯罪が成立することはあり得ません。

実際にこの事件でも、最高裁決定は、被告人が覚醒剤を運搬していることを「知らなかった」と認定したわけではありません。
最高裁は、「被告人は、密輸組織の関係者等から、回収方法について必要な指示等を受けた上、本件スーツケースを日本に運搬することの委託を受けていた」と認定しています。

つまり、「知っていて運んだ」という認定なのです。

有罪にする以上、当たり前といえば当たり前の認定なのですが、これを受けて、


「知らなかった」でも有罪


という記事タイトルを付けるのは、ミスリードでしょう。
そりゃ、被告人は「知らなかった」と言っているので間違いじゃないでしょうけど、このタイトルは、

「殺してない」でも有罪
「盗んでない」でも有罪

とかいうタイトルを付けるようなものです。
そんな馬鹿なことがあるか…と。


続いて、記事の中身ですが、決定の要約が、
「覚醒剤が入った荷物の運搬を委託された者は、特段の事情がない限り、密輸組織の指示を受けたと認定すべきだ」
となっていますが、これがセンター試験の国語の文章要約問題だったら、この選択肢を選んだら×ですよ。


最高裁の言ってることは次の通りです。
まず前提として、
運搬者に対し、荷物の回収方法について必要な指示等をした上で覚せい剤が入った荷物の運搬を委託するという密輸方法を採用するのが通常である
つまり、密輸組織は「普通は回収方法を指示して運搬するものだ」としています。
ただ、弁護側がいうように、「運搬者に知らせず、こっそり運ばせる」という手段もないことはないが、そういう手段は、
密輸組織において目的地到着後に運搬者から覚せい剤を確実に回収することができるような特別な事情があるか、あるいは確実に回収することができる措置を別途講じているといった…(中略)…特段の事情がない限り、運搬者は、密輸組織の関係者等から、回収方法について必要な指示等を受けた上、覚せい剤が入った荷物の運搬の委託を受けていたものと認定するのが相当である。
という判断基準を示しています。

これを要約するならば、

「覚醒剤を運んでいた者は、特段の事情がない限り、委託を受けて運んでいたと認定すべきだ」

ということになります。


読売新聞の記事のように「覚醒剤が入った荷物の運搬を委託された者は」という主語だと、ごくごく当たり前のことをいってるだけになります。
つまり、「指示を受けて覚醒剤の運んでいた人は、指示を受けて覚醒剤を運んでいたと認定すべきだ」といっているのと同じことです。

これだと、ちょっと何がいいたいかかわからないですね。
実際には、「覚醒剤が入った荷物の運搬を委託されていたかどうか」が問題になっているのですから。

そして、今回の事件に当てはめると、特段の事情が存在しないので、「委託されていた」と認定したものです。


ここまでは、特に詳しい刑法の知識がなくても、決定を読むだけで正しく記事にできたはずです。
WEB上で日経新聞とNHKの記事が読めますが、どちらも、きちんと要約できています。


さらに、ここからは少し刑法の知識が必要になってきますが、読売新聞の記事は、
ソウヤー被告も1審・千葉地裁で無罪とされた。被告の違法性の認識を立証するのが難しいためだ
と書いてありますが、本件で、「違法性の認識」などは全く問題になっていません。

違法性の認識とは、「(事実の認識を前提として)その事実が違法であるという認識があったか」という問題です。
本件でいうと、例えば「覚醒剤を運ぶことは知っていたが、覚醒剤を運ぶことが法律に違反しているという認識があったか」という問題ですね。

基本的に、違法性の認識が欠けていたとしても犯罪成立には影響しませんので(参照→「法の不知は害する」)、違法性の認識を立証する必要はありません。

刑法学的には、「何か怪しい白い粉を運んでいる認識はあったがそれが覚醒剤とは知らなかったとしたら、故意が認定できるか」といった論点は存在するのですが、そこは今回の争点ではありません。


最高裁決定の中でも、きちんと、
本件の争点は、本件スーツケースの中に覚せい剤を含む違法薬物が収納されていることを被告人が認識していたかどうか(以下、この認識を単に「知情性」という。)にある。
と書いてあるとおり、「事実(事情)」の認識の認定(立証)の問題です。


こんな具合に、読売新聞の記事は、結論だけは正しいのですが、その他の理由付けとか背景とか経緯とかは全部おかしなことになっています。


よみうりの司法記者さん、もうちょっと頑張って!


では、今日はこの辺で。

2013年10月19日土曜日

特撮ヒーロー俳優が会社法違反で警察沙汰に?

司法書士の岡川です。

特撮ヒーロー俳優の齋藤ヤスカさんという方のブログが最近炎上気味です。
有名人が不用意な発言をすると火消がたいへんだなぁ・・・と遠目に観察していましたが、正直あんまり興味はないので放置していました。
だって、齋藤さんってどなたか存じ上げないですし・・・。


そもそもの発端は、どうやらお父様が遭難したとかで、その捜索費用の募金を呼び掛けたところ、警察から注意されたことらしいですね。

で、その齋藤さんがまた燃料投下・・・というより、元からこっそり仕込んであった火薬に火がついてしまったようで、今度はツイッターのほうに批判がでています。
いや本当、有名人は言動に気をつけないと大変です。
ただ、こちらは、少し法律が絡んでくるので、首を突っ込んでみます。


募金乞食俳優・斎藤ヤスカが株式会社Endear社長として詐称し登記すらしていなかったことが発覚!会社法違反で警察沙汰へ(ハムスター速報)

要するに、「株式会社エンディア代表取締役」という架空の肩書をツイッターのプロフィールに記載していたという話です。
「株式会社エンディア」という会社は(少なくとも、その時点では)存在しないらしい。

株式会社と株式会社でないものの区別は、以前こちらの記事で書きましたが、株式会社として登記された団体が株式会社で、それ以外は株式会社ではありません。

そして、エンディアという団体(が存在するかどうか知りませんけど)は、株式会社の登記がされていないのであれば、絶対に株式会社ではありません。

そして、株式会社でないものが株式会社を名乗ることは会社法で禁じられています。
第7条
会社でない者は、その名称又は商号中に、会社であると誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
エンディアという団体が実際にあって、その団体が「株式会社」と名乗って活動していたのであれば、会社法違反ですね。


さて、前掲ブログ(ハム速)にもあるとおり、会社法7条違反には、「100万円以下の過料」という制裁が規定されています(会社法978条)。

それ自体は正しいのですが、そのあとが間違いです。
こういう外部サイトのコメントが引用されています。
会社法違反は民事ではないので警察(検察)の管轄です。
警察または検察に告発(刑事訴訟法239条1項)します。
文書を提出か、口頭で申し立てる事になりますが、口頭の場合は調書が作成されます。(刑事訴訟法241条1項)

民事ではないので警察・・・というのは、誤りです。
というのも、過料は行政上の制裁であり、本件は刑事事件ではないからです。

「刑事」というのは、刑法等の刑罰法規の適用を受ける事柄、簡単にいえば犯罪に関することをいいます(参照→「民事と刑事」)。
そして、過料は「行政罰」であって、刑法に規定される「刑事罰」ではありません。
つまり過料事件は、民事事件でも刑事事件でもなく、行政事件です。

したがって、刑事訴訟法の適用はありませんし、警察沙汰になることもありません。
警察や検察に告発したところで、門前払いされます。

じゃあ、「どこ沙汰になるんよ?」といえば、基本的に法務局と裁判所沙汰になります。
会社法違反の過料事件は、非訟事件手続法に基づき、裁判所管轄の事件です。
過料自体は行政処分なのですけど、事件としては裁判所管轄なんです(執行は検察が行います)。


実際に過料に処されるかどうかはわかりませんが、少なくとも齋藤さんは「犯罪」(刑法違反)を行ったわけではないし、警察に逮捕されることもないということで、齋藤さんファンのみなさんご安心ください。

ま、過料も違法行為に対する制裁であることには変わりないのですけどね。

では、今日はこの辺で。

2013年10月17日木曜日

アンパンマンの印税の行方

司法書士の岡川です。

アンパンマンの作者、やなせたかし氏が亡くなりました。
どうやら子がいなかったらしく、遺産の行方を気にする人も出てきているようです。

やなせたかし氏が「アンパンマン」で残した“遺産400億円”の行方


「問題は遺産の行方です。93年に奥さんに先立たれ、子供も親戚もいないそうです。関係者の間では、遺言で誰かを遺産の受取人に指名しているのか、それとも遺言を残さず遺産が国庫に入ることになるのかが話題になっています」(ある漫画家)

400億もあって、相続人がいないことがわかっていたなら、さすがに遺言ぐらい用意しているでしょうが、仮に何の用意もしていなかったり、用意していたとしても法的に有効な遺言でなかったとすれば、相続人を探す手続きが始まります。
それでもし相続人が見つからなかった場合、「特別縁故者」がいるかどうかが問題になります。

特別縁故者とは、「被相続人と生計を同じくしていた者、被相続人の療養看護に努めた者その他被相続人と特別の縁故があった者」をいいます(民法958条の3)。
例えば、内縁の妻などがいれば、相続人ではありませんが、この特別縁故者に該当する可能性があります。
もしそういう人がいれば、家庭裁判所に請求して相当と認められると、相続財産の「全部又は一部」を取得することができます。

特別縁故者もいなければ、遺産は全て国庫に帰属することになります。


ではその場合、アンパンマンは国のものになって、アンパンマンの印税が国の収入になったりするのでしょうか?

もちろん、そんなことはありません。

アンパンマンをはじめとする、やなせたかし氏の著作物に関する著作権については、国庫に帰属することなく、消滅します(著作権法62条)。

著作権は、相続人がいれば相続人が相続することになりますし、法的に有効な遺言で誰かに遺贈されていればその人に帰属することになりますが、そのどちらでもなければ、「国が著作権を取得する」のではなく、「著作権が消滅する」という制度になっています。
著作権は、著作者の死後50年存続するというのはよく知られてますが、それは著作権が帰属する主体(相続人等)がいることが前提です。

実際にアンパンマンの権利関係がどうなっているのかは分かりませんが、やなせたかし氏が著作権を生前に譲渡しておらず、遺言も残していなかった場合は、アンパンマン(厳密には、「アンパンマンというキャラクターそのもの」ではなく、アンパンマンのイラストなど)はパブリックドメインになります。
もちろん、アニメーション作品などは、やなせたかし氏に権利が帰属しているわけではないので、今日からアンパンマンのアニメはyoutubeで流し放題!ということにはなりません。
ただ、例えばアンパンマンのイラストは、著作権者が存在しないわけで、誰でも勝手に使って良いことになりますね

権利関係を全く確認せずに書いているので、実際のところどうなるかについては、一切責任は持てませんけど(←ここ重要)。



商標権も同様に、商標権者に相続人がいなければ消滅する(商標法35条)のですが、どうやら「株式会社フレーベル館」が色々と商標権を持っているようなので、やなせたかし氏の権利が消滅したとしても、アンパンマンを使った商品を簡単に作ることはできなさそうです。
アンパンマンに関する登録商標は、こんな具合→「検索呼称:アンパンマン」。


ここまで、著作権が消滅する前提で書いてきましたが、逆に、遺言でどこかの団体等に遺贈していたりすれば、今後その団体等には、今までやなせたかし氏が得ていたアンパンマンの印税収入が入ってくることになりますね。

その辺で、なんかいい話が出てくるかもしれないし、出てこないかもしれません。


では、今日はこの辺で。

2013年10月16日水曜日

法律一発ネタ(その3)

司法書士の岡川です。

野良猫とか野良犬を虐待することは、動物愛護法違反の犯罪ですが、野良ハムスターとか野良カピバラを殺しても犯罪にはなりません。

それらは、動物愛護法上の「愛護動物」の定義から外れるからです。
差別ですね。

では、今日はこれだけ。

2013年10月15日火曜日

お伊勢参りレポート(内宮編・後半)

司法書士の岡川です。

外宮編」「内宮編・前半」とお送りしてきた伊勢神宮の旅の報告ですが、今日で最後です。

前半では、荒祭宮の参拝まででしたね。

内宮の境内には、荒祭宮ともう一つの別宮があります。
風日祈宮です。













風日祈宮


風日祈宮は、五十鈴川の支流の島路川を渡った対岸にあります。

グーグルマップで位置関係を確認してみたのですが・・・


大きな地図で見る


風日祈宮はそんなとこにありません。
そこにあるのは、大山祇神社(内宮の所管社)です。
※グーグルマップが修正されて、現在では正しい位置が表示されるようになっているようです。

本当の位置は、地図の「伊勢神宮」と書いてあるところ(これが正宮)の左下に、川の対岸(南側)に渡る橋がみえますが、その渡ったところにあります。



さて、風日祈宮の参拝も終われば、
















・・・とかを横目に見つつ、最初の宇治橋のほうへ戻ります。
宇治橋付近に、上記の大山祇神社や子安神社などもあるので、立ち寄って参拝。

宇治橋を渡って外に出れば、「おはらい町」とか「おかげ横丁」とかがありますので、昼食タイムです。

だいぶ賑わってはいるのですが、結局のところ、牛か魚しかないので適当に。
(ついでにいうと、甘味的なものは赤福ばっかりです)


さて、内宮の境外に出ましたが、まだ参拝は終わっていないので、こんなところで立ち止まっているわけにはいきません。

次に目指すは、月讀宮です。
こちらも、外宮の別宮である月夜見宮と同じく、ツクヨミが祀られています。

ただ、歩くには少し遠いので、バスを使います。
内宮から外宮方面へ向かうバスに乗り、五十鈴川駅で降りるのが最寄りなのですが、実は月讀宮を通り過ぎているので、少し歩いて戻らなければなりません。

10分くらい歩いて戻ると・・・













月讀宮入り口


ありました。

ここにあるのは月讀宮なのですが、










伊佐奈弥宮
伊佐奈岐宮
月讀宮
月讀荒御魂宮


実は、こんな風に、4つ連なって建っています。
左(手前)から、伊佐奈弥宮、伊佐奈岐宮、月讀宮、月讀荒御魂宮です。
文字通り、イザナミ、イザナギ、ツクヨミが祀られ、一番右は、ツクヨミの荒魂が祀られています。
良く見ると、月讀宮だけ、ほかの3つより若干大きいことが分かります。

月讀宮→月讀荒御魂宮→伊佐奈岐宮→伊佐奈弥宮の順番で参拝するのが正式らしいことを今知ったのですが、とりあえず効率的に左から順にお参りしてきました。


そして、敷地内の参拝ルートから外れたところに何の案内もない社がポツンと建っています。
賽銭箱も置いてないのですが、ついでなので参拝してきました。

今調べてみると、葭原神社という、内宮の末社のひとつだったみたいです。
無視しなくて良かった!

これから月讀宮に行く皆さん、見落としに注意ですぞ!


月讀宮が終わると、ラストは倭姫宮です。
これまた離れたところになるので、まず五十鈴川駅まで戻って、そこからタクシーで向かいました。














倭姫宮入り口


なかなか雰囲気があります。













倭姫宮


社殿はこんな感じ。
さすがに、ここまで来ると参拝客がだいぶ減ります。
それでもちらほらと数人いました。


以上で、伊勢神宮めぐり終了です。

今回参拝した神社は、

外宮・・・正宮1、別宮4(多賀宮、土宮、風宮、月夜見宮)、所管社1(下御井神社)
内宮・・・正宮1、別宮7(荒祭宮、風日祈宮、伊佐奈弥宮、伊佐奈岐宮、月讀宮、月讀荒御魂宮)、末社1(葭原神社)、所管社2(大山祇神社、子安神社)

合計17の宮社を回りました(たぶん)。

伊勢神宮125社完全制覇には程遠いですが、とりあえず、外宮、内宮の近隣にある所は回りました。
機会があれば、いつか残りも全部参拝しようと思います。


今回の旅のレポートはこれにて終了です。


では、今日はこの辺で。

お伊勢参りレポート
外宮編
内宮編・前半
・内宮編・後半 ← いまここ

2013年10月14日月曜日

お伊勢参りレポート(内宮編・前半)

司法書士の岡川です。

昨日に引き続き、今日も伊勢神宮参拝のご報告(昨日の記事はこちら→「外宮編」)。

さて、外宮境内から月夜見宮を回って、次はいよいよ内宮です。
内宮へは、伊勢市駅→外宮→内宮と続くバスがあるので、これに乗り込みます。

ちなみに、バス料金は、伊勢市駅から内宮まで410円もしますので、人数によってはタクシーのほうが安上がりかもしれないですね。

というわけで、バスで揺られて内宮へ。













宇治橋前の鳥居


思いっきり逆光のなか記念撮影。
宇治橋を渡れば、神域です(ここからは右側通行です)。

宇治橋の下は、五十鈴川が流れています。













五十鈴川


自然が広がっております。
内宮のほうも、最初に目指すは正宮です。
例によって正宮は一番奥にあるので、正宮目指して歩きます。

が、その前に、五十鈴川の御手洗場(みたらし)があるので、そこで手を清めます。












御手洗場



実は、この手前に手水舎もあるのですが、せっかくなので、両方で手を洗いました。
















ものすごく水が澄んでいます。
















謎の魚が岩にへばりついているのを発見。


さて、手も洗ったし、いざ正宮へ。













第二鳥居


人も増えてきました。













神楽殿


とりあえず、今回は神楽殿はスルーします。
祈祷とかはここで行うみたいですね。

しばらく歩くと、ついにお目当ての正宮に到着です。













内宮の正宮


すげぇ人・・・。

ここに日本人の総氏神ともいわれる天照大神が祀られています。
鳥居をくぐれば参拝する場所がありますが、それより奥に入ることはできません。
(お金払って申し込めば、もうちょっと先に入ることもできるみたいです。)

伊勢神宮は、個人的な願い事をする場所ではない(って明治天皇の玄孫がTVで言ってた)ので、とりあえず、日本の平和と繁栄を祈っておきました。

正宮の右には、ついこの前まで神様がいらっしゃった旧宮があります。
こちらも、引きで撮影できないところに建っているのですが、何とか撮影。













内宮の旧宮


この旧宮の横をぐるっと回って、後ろ側に出ます。

するとそこにあるのが、荒祭宮です。
こちらは、天照大神の「荒魂」を祀っています。










荒祭宮
旧宮(左)
新宮(右)



荒祭宮は、ばっちり遷宮が完了していました。
この荒祭宮は、伊勢神宮の中でも、個人的な願い事をしてもいい場所とされている(って、明治天皇の・・・以下略)ので、個人的な願いをしておきました。

なお、荒祭宮の「個人的なお願いが許される場所」という位置づけのせいか、長蛇の列ができていました。
しかも、警備員が「ただ今1時間待ちです。バスや電車の時間がある方は、立ち寄らずにお帰りください」みたいなことを言って、参拝客を帰していました。

ネズミの国のアトラクションじゃあるまいし・・・。

私は、ぜひとも個人的なお願いをしたいので、警備員は華麗にスルーして並びましたが、15分くらいで普通に参拝できました。
















宝くじを買ってないのに1億円当たりますように・・・(‐人‐)パンパン




というわけで、個人的なお願いも終わりましたが、まだまだ続きます。


ちょっと長くなったので、続きはまた次回。

では、今日はこの辺で。

お伊勢参りレポート
外宮編
・内宮編・前半 ← いまここ
内宮編・後半

2013年10月13日日曜日

お伊勢参りレポート(外宮編)

司法書士の岡川です。

昨日、念願の伊勢神宮参拝に行ってきました。
前から行きたかったのですが、今年は式年遷宮の年なので、この機を逃してなるものか、と思い立って一日旅行を決行です。

3連休ということで、確実に混雑が予想されたのと、どうせ行くからにはたくさん回りたかったので、朝4時に起きて、始発で行きました。
私は高槻在住なのですが、特急を使わず、阪急、地下鉄、近鉄を乗り継いで、約3時間で伊勢市駅に到着します。
伊勢市駅からは、歩いて5分くらいで外宮に着きます。


伊勢神宮には、天照大神を祀る内宮と豊受大神を祀る外宮があり、その2つの正宮のほかに、別宮、摂社、末社、所管社があります。
125社の総称を神宮というようです。
これらの神社は、内宮・外宮それぞれの境内・境外だけでなく、伊勢市の外にまで散在しているのですが、さすがに一日で全部回るのは不可能ですので、今回は伊勢市内の神宮を制覇してきました。

外宮→内宮の順で参拝するのが正式らしいので、まず外宮に行きます。














外宮の鳥居


ここから神域です。
正宮は、一番奥にあるので、まずは、ひたすら奥を目指して歩きます。














外宮の正宮(の門)


ここに豊受大神が祀られています。
食物の神様らしいです。












囲いの中が正宮
奥に見える鳥居が新宮、手前が旧宮の入り口



遷宮の年ならではの光景として、右側に旧社殿が建っています。
本当に全く同じものが並んで建っている光景は圧巻です。

神様のいる本殿の近くまでは行けませんので、門の外に参拝する場所があります。
正宮にお参りしたら、境内の別宮を回ります。














風宮


外宮の境内には、多賀宮、土宮、風宮の3つの別宮があります。
上の写真は風宮ですが、どの別宮も同じような造りになっています。

ところで、右側にスペースがありますね。
伊勢神宮の遷宮は、内宮外宮の正宮だけで行われるのではなく、別宮でも行われます。
右側のスペースが、おそらく風宮の新宮が建てられる場所ですね。














多賀宮


多賀宮は、既に新宮が横に建てられていました。
ちょっとわかりにくい写真ですが、右側の新しい建物が新宮、奥の人だかりが、旧宮です。
多賀宮は、石段を上った上にあるので、引きで撮影出来ないんです。

参拝は旧宮のほうに誘導されましたので、神様がまだ遷されていないということですね。


さて、外宮の境内にはあと下御井神社があります。
写真撮り忘れましたが、神社といっても、井戸の上に小さな祠が載せられているものです。
これは、外宮の所管社らしいです。

小さくて2人ずつくらいしか参拝でいないのと、別宮を回った人が集中するため、長蛇の列ができていました。

以上、外宮の境内にある正宮、別宮、所管社を回って終了ではありません。
もうひとつ、外宮の境外にひとつ別宮があります。

外宮から内宮へ行くバスが出ているのですが、スルーして内宮に行ってはもったいない。

ということで、最後の別宮目指して、いったん駅の方向へ歩きます(内宮は、駅とは逆方向にあります)。
10分くらい、住宅街を歩くと・・・













月夜見宮の鳥居


ありました。月夜見宮の入り口です。
天照大神とスサノオの兄弟、ツクヨミが祀られています。














月夜見宮


この日は、どうやら祭りがあるみたいです。
地元の町内会か何かの集団が参拝してました。


以上で、外宮制覇です。

次回、「お伊勢参りレポート(内宮編)」をお送りします。

では、今日はこの辺で。

お伊勢参りレポート
・外宮編 ← いまここ
内宮編・前半
内宮編・後半

2013年10月9日水曜日

登記識別情報の話

司法書士の岡川です。

今日はまた登記の基礎知識シリーズです。
前回の権利書の話で、昔ながらの権利書(登記済証)は、今では発行されることがなくなっている、という話をしました。
これは、登記手続きがオンライン化されたためで、昔ながらの紙の権利書というのは、制度上、何かと不便になったからです。
そして、今では、権利者に「登記識別情報」という12桁の記号(数字とアルファベット)が発行されます。
これが登記済証に代わって、権利者の本人確認の資料となります。

登記識別情報は、新しく権利者となった人にのみ通知されるパスワードのようなものです。
つまり、権利者がさらに不動産を売る場合は、そのパスワードを登記所に提供することで、「パスワードを知っている私が権利者だ」と証明するわけです。

権利者であることを証明する物が、物理的な書類である「登記済証」という紙の書類から、「登記識別情報」というデータに置き換わったわけですね。
ハイテクですね。

いや、実際はかなりローテクな手続きが続いてるんですけど。


一般的にこの登記識別情報は、「登記識別情報通知」という緑色の特殊な紙でできた通知書で通知してもらいます。
この紙が、今では俗に「権利書」と言われています。
ただ、この紙自体は昔の登記済証のように意味がなくて、重要なのはそこに書かれた12ケタの記号です。
なので、登記するときには、登記所にその記号さえ提出すれば良いので、記号を書いたメモ書きであっても構いません。

書類ではなくて、そこに書かれた文字列が権利者であることを証明するということは、その記号を他人に知られることは、昔ながらの権利書(登記済証)を盗まれたのと同じことを意味します。
そのため、誰にも見られないように、登記識別情報通知には、登記識別情報の上に目隠しの保護シールが貼られています。
それが剥がれていると、誰かに情報を見られた可能性がある、ということになります。

基本的に、登記識別情報は、次に登記をするとき以外は使うことがなく、権利者自身も知っておく必要がないものです。
保護シールは一度剥がすと貼り直せませんので、登記識別情報通知を受け取った場合、シールは絶対に剥がさず、そのまま誰にも見られないように保管しておきましょう。

もちろん、この登記識別情報がわからなくなった場合(シールを剥がさず保管していたが、間違って燃やしてしまった場合など)でも、登記をする方法はありますので、その場合も司法書士にご相談ください。

では、今日はこの辺で。

登記の基礎知識シリーズ
登記とは何か
登記はどこでするのか
登記簿には何が載っているか?
公示の原則
公信の原則
権利書の話
・登記識別情報の話 ← いまここ

2013年10月8日火曜日

土屋アンナさんが一方的に「法的根拠」を求められる理由

司法書士の岡川です。

約束は守らなければいけません。
これは、社会の常識です。

法的な拘束力を有する約束のことを「契約」といいますが、契約も有効に成立した以上は、守らなければなりません。
約束を守らなければ、民法415条に基づき損害賠償責任が生じることもありますし、賠償金を支払わなければ、国家権力を使って強制的に支払わせる(つまり強制執行する)ことも可能です。

もっとも、どんな内容の契約であっても、契約書さえ作ってしまえば必ず守らなければならないのか、というと、もちろんそんなことはなく、もし何らかの瑕疵(欠陥)があって、その契約は有効でないということになれば、約束を破ってもよいということになります。

契約関係を規律する一般法は民法ですが、民法には、契約が無効になる場合や、取り消すことができる場合も規定されています。
逆にいえば、その契約に、民法(やその特別法等)に定められているような問題(欠陥)がなければ、どんなに嫌な内容の契約であったとしても、「契約を締結した以上は誠実に履行しなければならない」ということになりますね。

ところで、女優の土屋アンナさんが、とある舞台の稽古を欠席し、結果的にその舞台の開催ができなくなったという事件がありました。
そこで、舞台の主催者側が、土屋さんを訴え、損害賠償を請求しています。

土屋さん側は、その舞台が原作者の意向に沿わないものであったため、そのような舞台には出られない、として稽古を欠席したのだと主張しています。
他方、主催者側は、原作者の承諾はとっていたと、主張が真っ向から対立しています。

契約が成立したにもかかわらず、土屋さんは勝手に稽古を休んだわけですが、基本的には、そういう勝手は許されません。
契約は、原則として守らなければならないものだからです。

となれば、原告である主催者側は、訴える段階では「稽古に出る」という内容の契約が成立したことを主張立証すれば足ります。
それ以上に、「稽古に出なくてはならない根拠」について理屈をこねて説明する必要はありません。

これに対し、土屋さんが稽古を休んだのには相応の理由(真偽は不明ですが)があるようです。
しかし、どんなに重大な理由があったとしても、法的に契約が有効なのであれば、契約に違背した責任は負わなければなりません。
したがって、今回土屋さんが稽古を休んだ理由が「成立した契約の有効性を否定するような理由」であることを証明しなければいけません。

つまり、契約が成立していることを前提に、「原作者の承諾がない」とか「承諾がないとなぜ稽古に出なくていいのか」とか、色々と主張立証しなければならないのは被告である土屋さん側なのです。


第一回口頭弁論期日において、裁判長は、土屋さん側に「稽古にでなくても約束違反にならないと判断できる法的根拠」を示すよう指示したそうです。
こういう指示を被告である土屋さん側にするのは、上記の対立構造からみれば当然のことです。
別に、現時点で裁判長が原告の主張を認めたわけでもなく、ただ「被告のターンになった」というだけの話です。

答弁書にその辺が完璧に書かれていて証拠もそろっていたら、わざわざ裁判長もそんな指示も出さなかったでしょう。
また、裁判長に指示を出されなくても、弁護士なら当然、第二回口頭弁論期日までに提出していたはずです(そういうものが用意できれば、の話ですが)。
たぶん、第一回期日には、主張も証拠も揃っていなかったんでしょうね。


さて、次回期日はどうなるか、芸能ニュース的には大注目なのでしょうけど、私はあんまり興味ないです。

では、今日はこの辺で。

2013年10月6日日曜日

ところで「違法DL罰則化」って何やねん??

司法書士の岡川です。

前回の続きです。
産経新聞のタイトルになっていた「違法DL罰則化」です。

これに違和感を覚えませんか?

この話題が始まった昨年から、いたるところで不思議な日本語が使われています。
・ダウンロード刑罰化
・ダウンロード刑事罰化
・ダウンロード罰則化
などなど。

「ダウンロード違法化」というのは、正確ではありませんが、これはこれで別にいいのです。
「一定の範囲で」という留保がつきますが、平成22年に「ダウンロード」行為が「違法になった」わけですから、「違法化」という表現で間違っていません。

でも、「刑罰化」「刑事罰化」「罰則化」って何でしょう。

「違法ダウンロード」に「刑罰が科されるようになった」あるいは「罰則が設けられた」のであって、「違法ダウンロード」が「刑罰になった」とか「刑事罰になった」とか「罰則になった」わけではありません。

刑罰とか刑事罰というのは、刑法9条に定められた、「死刑」「懲役」「禁錮」「罰金」「拘留」「没収」のことをいいます(詳しくは、「そもそも「刑罰」とは何か」を参照)。
つまり、刑法上の罰(制裁)のことです。
ということで、ダウンロードが「刑罰化(刑事罰化)される=刑罰(刑事罰)になる」わけがありません。

それから、「罰則」というのは、その刑罰(刑事罰)を定めた規定のことをいいます。
罰則の「則」は規則の「則」ですね。
これまた、ダウンロードが「罰則化される=罰則になる」わけがありません(というか、「ダウンロード」が「罰則になる」ってどういう状況か想像できません)。

「罰則が定められている行為」つまり「刑罰が科される行為」のことを、法律用語として「犯罪」といいます(※)

したがって、学問的には「犯罪化(criminalization)」というのが正しい。
逆に、罰則が削除された場合は、「非犯罪化(decriminalization)」といいます。



「違法DL罰則化」は、なんとなくいいたいことはわかりますが、おかしな表現なのです。
みなさん、日本語(法律用語)は正しく使いましょう。


では、今日はこの辺で。

※細かい話をすると、刑法学(犯罪論)においては、違法性と有責性まで具備したものを初めて犯罪と定義しますが、その他の分野では特にそこまで限定されません。
つまり、ダウンロード行為に罰則が定められたということは、(一部の)ダウンロード行為が「犯罪になった」ということです。

2013年10月4日金曜日

違法にアップロードされた音楽のダウンロード規制について

司法書士の岡川です。

ネットをよく利用される方はご存知でしょうが、ここ数年で段階的に著作権法が改正され、現行法では、違法にアップロードされた音楽をダウンロードする行為は違法とされています。

経緯をおさらいすると、もともとは、たとえ違法にアップロードされたコンテンツであっても、それを私的にダウンロードする行為だけであれば、「私的複製」の範囲として適法行為とされていました。

しかし、レコード協会等を中心に規制を求める声が強まり、平成22年からこれが違法化されました。
さらに「違法化だけでは生ぬるい!」というレコード協会等の熱心な働きかけにより、昨年から違反者に最大で懲役2年の刑事罰が科されるようになったのです。

それから1年…。

違法DL罰則化 回復しない音楽売り上げが示すもの(産経新聞)
音楽の違法ダウンロード(DL)に罰則を設けたのに、1年たっても売り上げが回復しない-。音楽業界からの強い要望を受けて昨年10月から改正著作権法が施行されたが、期待された音楽CDや配信の売り上げ増効果が出ていないことがネットで話題となっている。


そもそも、違法にアップロードされた音楽をダウンロードする層は、「タダだから聞く」のであって、逆にいえば、「タダじゃないなら別に聞かない」ような人が多く占めているであろうことは、容易に推測されます。
したがって、もし違法なコンテンツのダウンロードを禁止されれば、もはや「じゃあ、聞かない」となるだけで「では、正規品を購入しようか」という方向に向かうわけがないのです。
本当にその音楽なりアーティストなりを気に入って音楽を聴こうとする層は、たとえネット上に転がっていたとしても、きちんと正規品を購入するものです。

こういう考え方は、最初にダウンロード行為を違法化するという話が出たときから、ネット上のユーザーの間では通説となっていたと思います。
違法化しても、売上回復には絶対に結びつかない、というのが大方の見方でした。

そして現に、その通りの結果が出ているわけですね。

なので、レコード会社側の人間が、今の現状を本気で「見込み違い」と考えているなら、著しい想像力の欠如であり、現状を正しく表現するならば、「完全に想定通り」というべきでしょう。
善意解釈するならば、「見込み違い」というのは建前で、彼らも本当は売り上げが回復するなんて期待はしていなかったのではないでしょうか。
ただ、違法コンテンツは許せないから規制してもらった、それだけの話だと考えられます。


こういう規制は、一度してしまえば元に戻すことは極めて困難です。
ほぼ不可能だといってもよいでしょう。
なので、安易な立法は避け、慎重に進めるべきです。
それでも現実には事業者の声の方が大きいので、とにかく規制ありきで話が進んでしまいます。

こうして、何の意味もない規制が増えていくのですね。


この話題は、少しだけ次回に続きます。

では、今日はこの辺で。

2013年10月3日木曜日

内閣総理大臣の「遷御の儀」参列の可否

司法書士の岡川です。

昨夜、伊勢神宮において、御神体を新宮に遷す「遷御の儀」が執り行われました。
20年に1度の式年遷宮のクライマックスです。
暗くてよく見えませんが、テレビでも映像が出ていました。
今年は絶対に伊勢神宮にお参りに行こうと思っています。
思っていますが、まだ行けていません。
ちなみに、出雲大社のほうも今年は遷宮の年でしたが、こちらは既に行きました(→「出雲大社」)。

さて、このまま神社とか神道とか神話とかの話を続けてもいいのですが、法律っぽい話をしましょう。
「遷御の儀」に安倍総理大臣が参列したというニュースを見て「絶対に批判する人が出てくるだろうな」と思っていましたところ、やはり出てきました。

「戦前回帰」「日本の文化」 遷御の儀に84年ぶり首相(朝日新聞)

日本キリスト教協議会の靖国神社問題委員長、坂内宗男さん(79)は「憲法に定められた政教分離の原則に反する行為だ。非常に深刻に受け止めている」と強い調子で批判した。
(中略)
首相の正月参拝は定着しているが、戦後3回あった式年遷宮に首相が参列した例はなく、前回は官房長官らの参列にとどまっていた。坂内さんは「伊勢神宮の公的位置づけを強め、国民にそういう意識を広める狙いがあるのでは」と危機感を募らせる。


「戦前回帰」の意味が分かりませんし、「伊勢神宮の公的位置づけを強め」という批判も根拠がありません。
朝日新聞の記者は、何を思ってこのコメントをとってきたのか分かりませんが、何でもかんでも批判すりゃいいってものではないでしょう。

伊勢神宮は、今年だけで1300万人の参拝が見込まれる日本文化に根差した神社であり、首相だけが参拝してはいけない理由とは何でしょうか。

これが問題になるのは、日本国憲法には、「政教分離の原則」が規定されているからです。
政教分離は、例えば刑法における「遡及処罰の禁止」のように、近代的な法体制の下では一般的に妥当するような普遍的な原則ではなく、各国の法制度、政治体制によって異なります。
現代においても祭政一致という政治体制もありますし、政教分離の原則が採用されている国であっても、緩やかな分離にとどまるところあります。
一口に政教分離といっても、必ずしも、「およそ公的なものと宗教的なものが何らかの接点があってはならない」というような、厳格な分離(完全隔離)を要求するものではないのです。

例えば、イギリスなんかは国教会というものがありますし、アメリカでは、大統領が就任するとき聖書に手を当てて宣誓しますね。
ドイツ連邦共和国基本法(ドイツでは憲法といわず、「基本法」といいます)では、前文でいきなり「神(Gott)」と出てきますし、公立学校での宗教教育についても規定されています。
つまり、「政教分離の原則がどこまで求めているか」は、各国の憲法を中心とする法制度に委ねられます。

そうすると、万国共通の政教分離の原則が存在しない以上、日本において「政教分離の原則に反するか」という問題は、専ら日本国憲法の解釈に委ねられます。

その日本国憲法では、政教分離の原則は次のような規定が存在します。
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(20条1項後段)
「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(20条3項)
「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(89条)

まず、安倍首相が参拝したからといって、伊勢神宮は何らかの特権を受けたわけではありませんね。
それから、おそらく公金は支出されていないでしょうから、89条違反の問題も生じていないはずです。
となれば、20条3項の問題となるわけです。
なお、前提として、内閣総理大臣というのは、国の行政機関ですので「国及びその機関」に該当します。
そして「宗教教育」は関係ないので、「宗教的活動」の問題です。

伊勢神宮の儀式は宗教行為に違いないですが、問題はそこではなくて、そもそも「国の機関が」宗教的活動を行ったかという点が問題です。
靖国の公式参拝についてよく問題となりますが、「内閣総理大臣が『私人として』の参拝する」ことが認められるかという問題ですね。
この点、確かに安倍晋三さんは、国の機関である内閣総理大臣ではありますが、人格や存在そのものが常に国の機関であるわけではありません。
安倍晋三さんがカレーを食べても「国の機関がカレーを食べた」ことにはならないし、安倍晋三さんがトイレに行ったからといって「国の機関が排泄した」わけではありません。
これらはあくまでも、安倍晋三さんという一人の人間が行った活動にすぎません。

同じように、宗教的活動への参加についても、「安倍晋三さんという一人の人間が参加する」ことを観念することは十分可能でしょう。
例えば、安倍晋三さんの親族が亡くなったときに安倍晋三さんが葬儀に参列することもあるでしょうし、安倍晋三さんがご先祖の墓にお参りに行ったりすることもあるでしょう。
これらは、国の機関である内閣総理大臣という肩書を持った安倍晋三さんが行ったとしても、「国の機関が安倍家の先祖にお参りした」ということにはならないと考えられます。
クリスチャンの大臣(麻生財務大臣がそうでしたね。確か)であれば日曜礼拝に行ってもいいし、仮にムスリムの大臣がいれば、定刻になればメッカの方向へ向いて礼拝しても問題がない。
大臣になったら、地元の神社に初詣に行って自分のお金を賽銭箱に投げ入れてはいけないなんていう馬鹿な解釈はありえません。

となると、安倍晋三さんが伊勢神宮に行っちゃダメな理由は無いでしょう。

もちろん、公費を支出したり「職務として参列」したりすれば、それはもう安倍晋三さん個人の行為ではなくて国の機関の行為ではないか、という問題が起こってきます。
そのときはまた、国の機関による宗教的活動はどこまで許されるのかという問題になるでしょう(このときに基準となるのが、いわゆる「目的効果基準」というやつですね)。

ただ、今回の遷御の儀については、菅官房長官が私人としての参列だと会見で述べています。
公費の支出は無かったのでしょう。
それでいいと思います。

そもそも今までも多くの閣僚が毎年正月に伊勢神宮に参拝されているわけです。
そうすると、「内閣総理大臣は伊勢神宮の『遷御の儀』にだけは参加してはいけない」という批判になろうかと思いますが…一見しておかしいこと言ってますよね。

靖国神社については、政治的な背景がいろいろあるので(「私人としても参拝すべきでない」とか逆に「むしろ公人として参拝すべき」との意見も含む)、少し複雑な問題が絡んできますけども、特段の事情(例えば、公費で寄付が行われたとか)でもない限り、内閣総理大臣が伊勢神宮のお祭りに参列したというだけの話で、「政教分離の原則に違反する」なんて騒ぐものではないと思います。

では、今日はこの辺で。

2013年10月2日水曜日

権利書の話

司法書士の岡川です。

「不動産登記の名義」といえば、皆さん登記簿より「権利書」を思い浮かべるのではないでしょうか。
ドラマとか映画とか(あるいは漫画とか)で、悪い人に権利書を奪われて、土地が他人の物になってしまう…というのは、よくあるエピソードですね。

こういう描写がよくあるせいか、「土地の所有者=権利書を持っている人」というふうに考えている方もいるのではないでしょうか。

しかし、法律家の目から見ると、あの「権利書さえ手に入れればこっちのもんだ(ニヤリ)」「権利書を返せー!」といった一連のやり取りは、単なる茶番です。

皆さんがイメージする、昔ながらの「権利書」は、正式には「登記済証」といって、登記が完了したときに発行される証書です。
もし手元にあれば、最後のページを見ていただければ、「登記済」という法務局の印が押してあるはずです。

この権利書ですが、非常に重要な書類であることは間違いないのですが、株券などの有価証券と違って、「持っている人が権利者」というような類の証書ではありません。
権利書というのは、基本的に「次の登記(例えば、権利者が土地を売って名義を書き換える等)をするときに必要な書類」です。
登記名義を新しい所有者に移す場合、「その権利書を渡す」のではなく、「その権利書を使って登記手続きをする」ことになります。

そして、登記手続きが終われば、新しい名義人には、登記所から新しい権利書が発行され、売主が持っていた権利書は、売主の手元に戻ってきます。
戻ってきた古い権利書は、登記手続きが正常に終わっていれば、ただの紙切れであり、俗に「空(から)の権利書」というふうにいわれます。
空になった権利書は、廃品回収に出そうが、記念にとっておこうが、鍋敷きに使おうが自由です。
そういう書類なので、もし「土地を売買しても、登記はしない」という人(いないでしょうけど)にとっては、必要のない書類です。

このように、権利書は、土地の権利とともに所持者が転々とするものではありません。
つまり、たとえ権利書を奪われたり、権利書を売られたり、権利書を質にとられたりして、権利書の所持者が変わったとしても、それだけで不動産の権利そのものが一緒に移転することはありません(民法176条参照)。


権利書が重要書類であり、軽々に他人に渡してはならない理由は、「他人の手に渡ったら、土地も他人の物になる」からではなくて、「他人の手に渡ったら、勝手に他人名義に登記をされる危険が高くなる」からなのです。


そういうわけなので、他人の権利書を悪用して所有権移転登記をしたとしても、法的には「無効な登記」ということになるので、権利書を奪われたからといって即絶望する必要はありません。
 もっとも、無効だということを主張するには、裁判で争ったりすることになるので、それはそれで非常に大変な思いをすることにはなるでしょう。

あるいは、権利書を誤って燃やしてしまったような場合は、勝手に登記をされる危険もないですし、権利書が燃えただけで所有権が消滅することもありません。
この場合、土地を売って買主に名義書換(登記)をしようと思えば、権利書が無いと非常に困りますが、権利書はあくまでも「本人確認のための(最も重要な)証拠のひとつ」という位置づけになので、権利書がなくても登記をする方法は存在します。
もっとも、その場合は費用とか手間が余計にかかりますけどね(詳しい方法は、お近くの司法書士へ)。


これらのことは、逆にいえば、権利書を持っているからといって「その土地はその人の物」とは限らないわけです。
例えば、父親が死んだときに、タンスの中から父親名義の土地の権利書が見つかったとします。
あなたが父親の相続人だとして、「遺産の中に広大な土地の権利書があった!これを売れば大金持ち!」と喜ぶのは少し早い。
その権利書はもしかしたら「空」の権利書で、既に登記名義は他人の物になっているかもしれないからです。
その土地の名義が現在誰になっているかは、権利書の有無では判断できないので、必ず登記簿謄本(登記事項証明書)を調べる必要があります(→参照「登記簿には何が載っているか?」)。

ところで、ここまでは、昔ながらの権利書、すなわち登記済証の話をしてきましたが、実は、不動産登記法が改正されたため、現在では登記済証は基本的に発行されないことになっています。
既に発行された登記済証が残っている(これはまだ有効です)ため、まだまだ目にする機会はありますけども、今から新たに登記をする場合、新しい権利者は登記済証をもらえません。
その代わり、「登記識別情報」というものが発行されます。
長くなったので、この話は次回です。

では、今日はこの辺で。

登記の基礎知識シリーズ
登記とは何か
登記はどこでするのか
登記簿には何が載っているか?
公示の原則
公信の原則
・権利書の話 ← いまここ
登記識別情報の話

2013年10月1日火曜日

相続登記は何のためにするのか

司法書士の岡川です。

公示の原則」を読んで、相続登記の必要性について疑問を生じた方はいるでしょうか?
いたとすれば、その人はなかなか鋭い。

不動産物権変動において、「公示の原則」とは、「登記をしておかなければ、第三者に『この土地は俺の物だ!』と言えない原則」でした。
登記をしないと、売主が別の第三者にも売ってしまう(二重譲渡)危険があります。

と、いうことは、不動産の名義人が死亡したとき、相続登記をする必要は何でしょう?
登記簿上の名義人は死んでいるわけだから、その人が別の人に売ってしまう可能性はないはず・・・。

細かい話をすると、相続でも第三者との関係が出てくる場面もあるので、その場合に、「公示の原則」で書いた話が妥当します。
なので、もうそれだけで相続登記はしておいた方がいいよ、と言えるのですが、実はもっと簡単な理由で、相続登記はすべきです。

それは、「相続登記を、できるときにやっておかないと、後々面倒だから」です。

あなたとあなたの子孫が未来永劫その土地を売ることもなく、贈与することもなく、担保に入れることもなく、固定資産税を納め続けるというのであれば、まあ、別に構いませんが、実際は、どうなるかわかりません。
どこかで、その土地を手放す必要が出てくることもあるでしょう。
そして、その時になれば、必ず登記が必要です。
「公示の原則」の最初に述べた通り、日本の民法によれば、売買のために登記は必須ではないので、「絶対に何が何でも登記が必要」とは言いませんが、ふつうは、買う側は登記を求めるでしょうから、現実問題として、ほぼ確実に登記は必要になります。
その時点で買主に登記を移すためには、その前提として相続人(の子孫)に登記名義が移っていなければいけません。

しかし、その時になって、「さあ、今まで先延ばしにしていた相続登記でもやってみるか~」と思い立っても、実は結構大変なことになっている可能性が高いのです。
数世代経るだけでも、ネズミ算式とまでは言わないにしても、相続人(「相続人の相続人」などを含む)の数が何十人にもなっている可能性があります。
行方不明の相続人、外国人と結婚した相続人、北海道から沖縄まで散らばった相続人、海を越えてヨーロッパ在住の相続人、その他にも離婚やら養子縁組やら、いろんな理由で、相続関係がものすごくややこしいことになっているかもしれません。

相続というのは、必ずしも親から子へ、子から孫へと向かうわけではなく、いろんなパターンがあります。
血の繋がっていない者同士が共同相続人という場面も決して珍しくありません。
数世代の相続を放置していると、そのいろんなパターンが、一気にドドドドっと押し寄せてくるわけです。
そして、見ず知らずの相続人全員(もはや、全員他人同士です。)と話を付けて、遺産分割協議を行わなければ、登記をすることはできません。
相続人全員が見つかればまだいいものの、行方不明の相続人がいることも珍しくもありませんので、その場合は、さらに時間と手間と金をかけて別の手続きが必要になります。

「そんな何百年も放置しないし、相続人が増えるといってもたがか知れている」とか思うかもしれませんが、実際には、1代でも放置すればややこしくなる可能性があります。

具体例を挙げると、ある依頼者の祖父の名義になっている土地の相続登記をしようとして、1年くらいかけて相続人を探しましたが、どうしても240分の1の相続分を有する相続人にたどり着くことができず、相続登記を断念したことがあります(実際は、もっと複雑なことになっていました)。

もちろん、追加で100万くらいかければ、何とかできないこともないのですが、諸般の事情を考慮して、最終的には、依頼者の子孫が未来永劫固定資産税を払い続けることになりました。
これは、依頼者の親の世代が、相続登記をせずに放置したためです。

ここまで極端な話にならないまでも、目先の登記費用をケチって放置すれば、後々、手間と時間とお金が余計にかかる可能性もあります。
なので、相続登記は、「できるときにやっておいた方がよい」のです。


相続登記に関する相談は、お近くの司法書士(または司法書士会の相談会)まで。(宣伝)

では、今日はこの辺で。