2017年3月19日日曜日

民法における責任能力(その1)

司法書士の岡川です。

前々回前回と、責任論という刑法学のディープな話をしました。
ここからまたマニアックな刑法の話に進んでいくことも考えなくもないのですが、ぐるっと私法分野の話に大きく舵を切ることにします。

私ってホラ、業務的には民事法が主戦場ですし?


これまでも度々このブログでも出てきていますが、民法上の責任能力の規定は、712条と713条にあります。
条文の場所からもわかるとおり、民法における責任能力は、不法行為に限った問題なのですが、他人の権利を侵害する違法行為という意味では、民法上の不法行為と刑法上の犯罪には共通するものがあります。

712条は、未成年者の責任能力に関する規定なのでとりあえず置いといて、713条を見てみましょう。

第713条 精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者は、その賠償の責任を負わない。ただし、故意又は過失によって一時的にその状態を招いたときは、この限りでない。 

刑法が「心神喪失者の行為は、罰しない。」というシンプルな(かつ何のことかよくわからない)書きぶりなのに対して、民法では、より具体的に「精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある」と書いています。
実は、口語化される前は、民法でも「心神喪失」という語が使われていましたが、改正されたという経緯があります。

なので、結局は刑法の規定と似たようなものなのですが、民法においては「制御能力」というものは考慮されません。
「制御能力だけを欠く」ような事態は、あまり民法では意識されていないのでしょうか(定義に含まれていないので、解釈論としてもあまり問題にされていないように思います)。
ちなみに、但し書き部分については、刑法の条文にはない規定ですが、刑法上でも解釈論として意図的に心神喪失状態を招いた場合は責任を問いうるとされています(「原因において自由な行為」といいます。またそのうち)ので、ここもあまり差は出ません。


まあ、そういう微妙な定義のズレは無視して、民法でも刑法と同じく、典型的な精神病(例えば重度の統合失調症)によって自己の行為の(法的な)善悪を認識できない人は、たとえ「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害」したとしても、損害賠償責任を負いません。


民法にも刑法と同じようなルールがあるということは、刑法における責任能力(心神喪失)の議論と同じ疑問が生じます(生じますよね?)。

なぜ責任能力のない人は、損害賠償責任を負わないのでしょうか。


私法と公法が分化していなかった古代においても、精神病者等の(近代法でいうところの)責任無能力者に対する責任を免除する考え方はあり、そこでは(近代法でいうところの)損害賠償責任が否定されていました。
結論として「責任能力を欠く場合に責任を問えない」とする制度は、現代に至るまで妥当なものと考えられ、近代的な民法にも刑法にも制度として残っているわけです。

ただ、その結論を導く理由は何か、という点では、民法と刑法ではそれぞれ独自に責任能力の理論が発展していきます。
同じような制度なのに、民法(不法行為論)と刑法(犯罪論)とでは、議論の枠組み(前提)が全く異なるのです。

例えば、民法には刑法でいう「責任主義」という考え方はなく、「責任」を独立の成立要件として問題にすることはあまりありません。
そのため、民法ではあまり(抽象的に)「責任の本質は何か」という議論にはなりません。

「責任能力」が「責任要素のひとつ」に位置付けられて論じられる刑法の論理展開では、責任能力の欠如は責任の欠如につながり、責任の欠如が犯罪成立の否定につながる、という流れになります。

他方そこまで細かく分析しない民法では、責任能力の欠如は、すなわち不法行為の成立の否定という話になります。
(※専門的な話をすれば、一応、不法行為の各成立要件を違法要素と責任要素に振り分けて論じることはあるのですが・・・結局その「責任」とは基本的には過失のことを念頭に置いており、刑法ほど体系的な議論が前面には出てこないのです)

そこで問われるのは、(独立した成立要件としての)「責任」の本質ではなく、まさに不法行為制度(あるいは不法行為責任)の本質や根拠です。
つまり他人に損害を与えて者に対して損害賠償を義務付ける(加害行為から損害賠償債務が発生する)根拠は何か、あるいはその逆で、債務が発生しない根拠は何か、が端的に議論の対象となるわけです。

ちょっと長くなってきたので、続きは次回

では、今日はこの辺で。

2017年3月1日水曜日

刑法上の「責任」とは何か

司法書士の岡川です。

前回、重度の精神病の人などが「心神喪失」と認定されると罪に問われないという話をしました。
実定法上の根拠としては、刑法39条であり、そこには「心神喪失者の行為は、罰しない。」と規定されています。

これは、責任能力について定めた規定だとされています。
責任能力は、ものごとの善悪を認識し、それに従って自己の行動を制御する能力のことです。


ところで、「犯罪」の刑法(犯罪論)における定義は、「構成要件に該当し違法で有責な行為」とするのが一般的です。
(刑法以外の分野では、これと異なる定義が用いられることもあります)

つまり、犯罪が成立するには、犯罪とされる違法な行為の類型(構成要件)に当てはまり、その行為が(可罰的に)違法であるだけでなく、責任がなければならないということです。
「行為者に責任がなければ刑罰を科すことができない」という原則を責任主義といいますが、これは、結果責任や連帯責任を否定する近代刑法の原則とされています。


そして、責任を判断する要素(責任要素)のひとつが責任能力です(責任の「前提」だとする見解もありますが、とりあえず無視しましょう)。
責任要素のひとつである責任能力がない者の行為は、「有責な行為」といえず、犯罪が成立しないために刑罰を科すことができません。

「心神喪失者の行為は、罰しない」という規定を分析すると、こういう理屈になると考えられています。


責任能力が責任の要素であるとして、では、そもそも責任とは何でしょうか。
なぜ責任が否定される行為は、違法であるにもかかわらず、犯罪にならないのでしょうか。


実は、「責任とは何か」という問いは、非常に難しいものです。

抽象的に定義づけると、責任とは、「非難」あるいは「非難可能性」のことであるとするのが現在の通説的な理解です。
刑罰というのは、違法な行為に対する制裁(非難)を本質とするものです(と、いうのが通説的な理解です。これを応報刑論といいますが、この話はまた今度)。
そうであるなら、非難できない行為は刑罰を科すことができない(犯罪とすることができない)というのは、論理的な帰結であるといえそうです。


ただ、非難可能性がない場合は非難できない…というのでは、何も説明してないに等しい。
そこでいう「非難可能性」はどういう場合にどういう理由で認められるのか、というのが本質的な問いなわけですが、責任の本質を巡っては見解が対立しています。

かつては、適法な行為をすることができたにもかかわらず、あえて違法な行為をしたことに対する道義的な非難であるという説明(道義的責任論)が通説でした。
自由意思に基づいて違法な行為をしたのであれば、それは自己の選択の結果として道義的に非難が可能であるし、逆にいえば、心神喪失者のように、必ずしも自由意思に基づいて違法行為を選択したといえないような場合には、道義的な非難をすることができない(非難可能性がない=責任がない)ということになります。

まあ何となくそんなもんかな、という気もしますが、「そもそも『自由意思』というのは存在するのか」という点に哲学的な疑問が投げかけられ、自由意思は存在しない(物事は自然法則により因果的に決定されている)という考え(これを「決定論」といいます)を前提に、危険な人物は、社会防衛のために刑罰を受けるべき立場にあり、それが責任であるという社会的責任論も主張されました。


現在では、社会的責任論(また、その背景となる近代学派)は支持を失っており、だいたい「完全な自由意思が存在する」という考えと「自由意思など一切存在しない」という考えの間くらいで、どの論者も少なくとも部分的に自由意思の存在を肯定したうえで、あえて違法行為に出る意思決定をしたところに非難可能性の根拠を見出すのが一般的です。

ただし、その「非難」について、最近の論者は、かつてのような「道義的非難」ではなくまさに「法的非難」であると説明することが多くなっています(法的責任論)。


「刑法上の責任とは何か」という問いに対する答えが、回り回って「それは法的責任である」というところに落ち着いちゃったわけで、イマイチ釈然としない部分は残るのですが、自由意思論と決定論の哲学的な議論に素人が軽々しく首を突っ込むと大怪我をするので、この辺で撤退するのが身のためです。


大怪我をしない安全圏から議論を眺めて、簡単にまとめるとこういうことです。

  • 「自由意思」の存在を科学的に証明することは不可能だが、人は少なくとも限られた範囲内においては意思決定を行っていると考えられる。
  • あえて違法な行為に出る意思決定をした点に法的非難が可能となる。
  • 上記のような意味における法的な非難(の可能性)が責任の本質である。
  • 刑罰の本質を「応報」であると理解する応報刑論の下では、非難として意味を持つ限りにおいて刑罰が正当化される。
  • 非難可能性(=責任)がない行為については刑罰が正当化されないので、犯罪は成立しない(=責任主義)。

だいたい共通する理解を抜き出してみると、こんな感じでしょうか。


そうすると、責任無能力者の行為は、行為者が違法な行為に出たことに対し、上記の意味での非難を向けることができない(あるいは、無意味である)ので無罪となる、という結論が導かれます。


もちろんこの説明で納得できないこともあるでしょうし、全ての疑問には答えきれていないのも事実です(というか、その部分がまさに軽々しく首を突っ込めない部分なわけですが)。

現に責任無能力制度の廃止を訴える見解(特に刑法学以外の分野から)も根強くあります。

ただ、そこは価値判断の問題になってきますね。
究極的には、「人を殺してはならない」というような命題であっても、価値判断抜きに語ることはできないわけです。


そんな「自分の意思で自分の行為をコントロールできないような人物を無罪にして野放しにしてよいのか」「それを良いと考える責任主義自体が誤りではないのか」という疑問が残るかもしれませんが、これはまた別の機会に。

では、今日はこの辺で。