司法書士の岡川です。
前回、私法の三大原則は「権利能力平等の原則」「所有権絶対の原則」「私的自治の原則」の3つであると紹介しました。
この「三大原則」は、別に何かの法律に明記されているわけではないので、この3つとは別の原則を三大原則としてカウントする論者もいます。
前回も出てきた「契約自由の原則」も、しばしば三大原則のひとつとして数えられます。
そして、三大原則に入れられることの多いもうひとつの原則が、「過失責任の原則」です。
過失責任の原則とは、人は、「自己の故意・過失による加害行為に対してのみ責任を負う」という原則です。
逆にいえば、故意も過失もない場合に、人はその結果について責任を負わないことを意味します。
したがって、他人の行為の結果について責任を負うことは無いし、各人に期待されている注意義務を果たしていれば、仮に悪い結果が生じたとしても、「結果責任」を負うことはありません。
ただ、この過失責任の原則は大幅に修正がされており、現代では、民法やその他の特別法に多くの例外規定があります。
修正の形としては、まず、過失の証明責任を加害者側に負わせる「中間責任」があります。
民法709条により、他者の過失により被害を受けた人は、損害賠償を請求することができます。
このとき、「加害者に過失があったこと」は、被害者が証明しなければなりません。
これを、「過失がなかったこと」を加害者に証明させ、その証明がなされない限り加害者は賠償責任を負う、というふうに証明責任を転換するのが「中間責任」というものです。
もうひとつが、そもそも加害者の過失の有無を問わずに責任を負わせる「無過失責任」というものです。
いずれも、原則よりも被害者側に有利な扱いが定められているわけですが、その背景には、2つの考え方が存在します。
まず、危険な物を取り扱う者は、それ相応の責任を負うべきだとする「危険責任」という考え方です。
原発事故の際に、事業者が無過失責任を負うのはその典型ですね。
もうひとつの考え方は、「報償責任」というもので、ある活動から利益を得ている者は、その活動から生じた損害についても責任を負うべきだ、とする考えです。
例えば交通事故では、自動車損害賠償保障法という法律により、無過失責任に近い中間責任が規定されており(自賠法3条)、被害者側が手厚く保護されています。
これも、逆にいえば自動車という危険な道具を使用する者に重い責任を負わせたものだといえます。
多くの例外が存在する過失責任の原則ですが、それでも原則は、「過失もないところに責任を問われない」ということはしっかりと押さえておかなければなりません。
では、今日はこの辺で。
2013年6月26日水曜日
私法の三大原則
司法書士の岡川です。
前回は、私法と公法の話を書きました。
今回はその「私法」(私人間の関係について規律する法)の原則について。
私法の基本原理として、一般的に次のような原則があるとされています。
人によっては、これとは違う原則を「三大」の中に入れたりするのですが、その場合もこれら3つの原則と似たようなものが入ってきます。
この原則が端的に表れているのが、民法3条1項で、
私権というのは、私法上の権利のことです。
「出生」という事実のみよって、私法上の権利を有するということですから、すべての人が権利能力を有するということを意味します。
これは、あまりにも当然のことすぎて、三大原則に数えないこともあります。
しかし、今では当然のこととはいえ、歴史的には必ずしも「当然」のことではないのであって(例えば、奴隷は私権の主体ではなく客体であった)、三大原則として数えるのが妥当でしょう。
また、すべての個人を個人として尊重する「個人主義」の表れでもあります。
何で所有権だけ特別なん?と思われるかもしれませんが、これには歴史的な背景があります。
かつては、特に土地の所有に関して、階層的な権利関係が設定されていました。
土地を直接耕作する人がいて、その上にその土地とその農民を支配する実力者がいて、さらにその実力者より上位の実力者がそれらを支配する、という主従関係がそこにあったわけです。
つまり、単純に物に対する支配だけでなく、人に対する支配を伴っていました。
近代的な「物に対する絶対的な支配権」としての所有権を保障するということは、国民をこのような封建的な支配から解放するという意味があります。
まあ、フランス革命の時代の話ですけどね。
そういう歴史的な意味を持つ原則ですから、必ずしも「とにかく所有権は絶対」というほどのものではありません。
民法206条は「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。 」として、一定の留保をしています。
「絶対」というほど絶対ではないのですが、とにかく、「私的所有」を認める近代社会を基礎づける原則だということですね。
なので、個人に土地所有権が認められていない中国なんかでは妥当しない原則ですね。
民法にはいろいろなルールが定められています。
中には絶対に守らないといけないルールもありますが、それらを除けば、民法に定められたルールは、別に守らなくてもよいのです。
「法律は守らなければならない」というのが常識と考えていた人には衝撃かもしれませんが、私法というのは実はそういうものです。
誤解のないように、もう少し正確にいうと、当事者間の合意によってルールを定めれば、そのルールが民法よりも優先する、ということです。
なので、当事者がルールを作っていなければ、法律が適用されることになるので、その場合はもちろん法律を守らなければなりません。
このように、私法上の法律関係というのは、必ずしも法律に縛られずに原則として自由に形成できるのです。
民法91条に「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う」とされています。
民法のうち、「公の秩序に関する規定」は、当事者の合意より優先します。
この原則を「契約」の場面に限定したものが「契約自由の原則」というものです。
「契約を締結するか」「誰と契約するか」「どのような契約をするか」「どういう方式で契約するか」は、原則として自由に決められるというのが契約自由の原則です。
契約自由の原則を、私的自治の原則の代わりに三大原則に入れる場合もありますが、私的自治というのは、必ずしも契約だけの話じゃないので、もっと射程の広い「私的自治」のほうを三大原則とするのが妥当でしょうね。
日本国憲法の三大原則と違って、法学部出身者でも意外と知らない人も多いのですが、原則はしっかりと身につけておきたいですね。
では、今日はこの辺で。
前回は、私法と公法の話を書きました。
今回はその「私法」(私人間の関係について規律する法)の原則について。
私法の基本原理として、一般的に次のような原則があるとされています。
- 権利能力平等の原則
- 所有権絶対の原則
- 私的自治の原則
人によっては、これとは違う原則を「三大」の中に入れたりするのですが、その場合もこれら3つの原則と似たようなものが入ってきます。
1.権利能力平等の原則
「すべての自然人は、国籍、階級、職業、年齢、性別等によって差別されることなく、等しく権利義務の主体となる資格(権利能力)を有する」といった原則です。この原則が端的に表れているのが、民法3条1項で、
第3条 私権の享有は、出生に始まると規定されています。
私権というのは、私法上の権利のことです。
「出生」という事実のみよって、私法上の権利を有するということですから、すべての人が権利能力を有するということを意味します。
これは、あまりにも当然のことすぎて、三大原則に数えないこともあります。
しかし、今では当然のこととはいえ、歴史的には必ずしも「当然」のことではないのであって(例えば、奴隷は私権の主体ではなく客体であった)、三大原則として数えるのが妥当でしょう。
また、すべての個人を個人として尊重する「個人主義」の表れでもあります。
2.所有権絶対の原則
「所有権は、私人はおろか国家でさえも侵すことのできない絶対的な権利である」といった原則です。何で所有権だけ特別なん?と思われるかもしれませんが、これには歴史的な背景があります。
かつては、特に土地の所有に関して、階層的な権利関係が設定されていました。
土地を直接耕作する人がいて、その上にその土地とその農民を支配する実力者がいて、さらにその実力者より上位の実力者がそれらを支配する、という主従関係がそこにあったわけです。
つまり、単純に物に対する支配だけでなく、人に対する支配を伴っていました。
近代的な「物に対する絶対的な支配権」としての所有権を保障するということは、国民をこのような封建的な支配から解放するという意味があります。
まあ、フランス革命の時代の話ですけどね。
そういう歴史的な意味を持つ原則ですから、必ずしも「とにかく所有権は絶対」というほどのものではありません。
民法206条は「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。 」として、一定の留保をしています。
「絶対」というほど絶対ではないのですが、とにかく、「私的所有」を認める近代社会を基礎づける原則だということですね。
なので、個人に土地所有権が認められていない中国なんかでは妥当しない原則ですね。
3.私的自治の原則
「私法上の法律関係において、各人は自らの自由意思にのみ基づいて自律的に法律関係を形成しうる」といった原則です。民法にはいろいろなルールが定められています。
中には絶対に守らないといけないルールもありますが、それらを除けば、民法に定められたルールは、別に守らなくてもよいのです。
「法律は守らなければならない」というのが常識と考えていた人には衝撃かもしれませんが、私法というのは実はそういうものです。
誤解のないように、もう少し正確にいうと、当事者間の合意によってルールを定めれば、そのルールが民法よりも優先する、ということです。
なので、当事者がルールを作っていなければ、法律が適用されることになるので、その場合はもちろん法律を守らなければなりません。
このように、私法上の法律関係というのは、必ずしも法律に縛られずに原則として自由に形成できるのです。
民法91条に「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う」とされています。
民法のうち、「公の秩序に関する規定」は、当事者の合意より優先します。
この原則を「契約」の場面に限定したものが「契約自由の原則」というものです。
「契約を締結するか」「誰と契約するか」「どのような契約をするか」「どういう方式で契約するか」は、原則として自由に決められるというのが契約自由の原則です。
契約自由の原則を、私的自治の原則の代わりに三大原則に入れる場合もありますが、私的自治というのは、必ずしも契約だけの話じゃないので、もっと射程の広い「私的自治」のほうを三大原則とするのが妥当でしょうね。
日本国憲法の三大原則と違って、法学部出身者でも意外と知らない人も多いのですが、原則はしっかりと身につけておきたいですね。
では、今日はこの辺で。
2013年6月25日火曜日
私法と公法
司法書士の岡川です
法の分類の仕方はいろいろです。
「国内法と国際法」とか、「実体法と手続法」といった具合です。
伝統的に、「私法と公法」という分け方もあります。
私法というのは、私人間(※「わたし - にんげん」ではありません。「しじん - かん」です。)の関係を規律する法のことで、公法とは私人と国家の関係を規律する法です。
例えば民法や商法が私法です。
民法は「私法の一般法」といわれており、私人間の法律関係について、特に個別の法律がない限り、広く一般的に適用されるのが民法です。
他方、憲法や行政法なんかが「公法」ですね。
刑法は、一見すると、私人同士の争い(例えば、殺した側と殺された側の関係)なので、私人間の関係を規律した私法?という風にも考えられますが、刑法というのは、国家によって禁止された行為(犯罪)とそれを破った場合の制裁(刑罰)について定めた法律なので、刑法上、加害者と被害者の関係ではなく、加害者と国家の関係(処罰される側と処罰する側の関係)が定められているといえます。
したがって、日本では公法に分類されています。
民事訴訟法は、民法と同じく「民事法」のひとつですが、民法と違って、日本では「公法」に分類されます。
民事訴訟法では、文字通り民事訴訟の手続きが規定されているのですが、民事訴訟(いわゆる裁判)というのは、国の機関である裁判所の手続きなわけで、それを利用する私人と国家の関係を規律しているということができるわけです。
この、私法と公法の区別というのは、伝統的によく使われたものなのですが、やはり微妙な法分野ってのが多々あって、また、定義もはっきりと決まっているわけではなく、ある法律が私法に入るか公法に入るかは、定義とか法体系とかによって(国によっても)変わってきます。
例えば、公法は憲法と行政法のみを指し、その他は私法だという分類の仕方もあります。
実際にフランスなどでは、刑法は私法に分類されています。
日本においても、憲法と行政法だけを(狭義の)公法と定義づける場合もありますので、その意味での「公法」からは、刑法は外れることになります。
この場合は、「私法と公法」に二分した一方の意味ではなく、数ある法分野のひとつとしての「公法」という意味ですから、「公法」から外れた刑法が「私法」に分類されるというわけではありません。
民法は私法、行政法は公法、刑法は刑法という感じですね。
このように、伝統的に広く用いられている私法と公法の分類ですが、なかなか曖昧なものなのです。
そもそも、私法の要素も公法の要素も入った法律もたくさんあります(経済法とか社会法とかいわれる分野は特にそうです)。
「公法分野には私法の法理は適用されない」という伝統的な考え方の下では私法と公法の分類は意味があったのですが、最近では、その考え方は否定されています(行政法分野でも私法の考え方が適用される)。
そうなると、伝統的に私法と公法に分ける二元論(二分論)的な考え方は、あまり意味がない…という指摘も有力です。
つまり、例えば「刑法は公法である」ということをいっても、ここから何の結論も導かれないのです。
刑法の解釈をするうえでは、別に刑法が私法であっても構わないんですね。
まあ、そうはいっても、批判はあるものの、今でも私法と公法という分類は(実益があるかどうかは別として)使われているので、知っていると便利です。
分類方法がはっきりしていないとはいえ、民法を公法に分類したり、憲法を私法に分類したりすることはないでしょうから、ある程度は予想できます。
もし、公法の中に刑法とか民事訴訟法とかが入ってたら「伝統的な二分論の意味での公法だな」と考えればいいし、公法に憲法と行政法だけが入ってたら「そっちかー、そっちの意味の公法かー」と納得しておきましょう。
では、今日はこの辺で。
法の分類の仕方はいろいろです。
「国内法と国際法」とか、「実体法と手続法」といった具合です。
伝統的に、「私法と公法」という分け方もあります。
私法というのは、私人間(※「わたし - にんげん」ではありません。「しじん - かん」です。)の関係を規律する法のことで、公法とは私人と国家の関係を規律する法です。
例えば民法や商法が私法です。
民法は「私法の一般法」といわれており、私人間の法律関係について、特に個別の法律がない限り、広く一般的に適用されるのが民法です。
他方、憲法や行政法なんかが「公法」ですね。
刑法は、一見すると、私人同士の争い(例えば、殺した側と殺された側の関係)なので、私人間の関係を規律した私法?という風にも考えられますが、刑法というのは、国家によって禁止された行為(犯罪)とそれを破った場合の制裁(刑罰)について定めた法律なので、刑法上、加害者と被害者の関係ではなく、加害者と国家の関係(処罰される側と処罰する側の関係)が定められているといえます。
したがって、日本では公法に分類されています。
民事訴訟法は、民法と同じく「民事法」のひとつですが、民法と違って、日本では「公法」に分類されます。
民事訴訟法では、文字通り民事訴訟の手続きが規定されているのですが、民事訴訟(いわゆる裁判)というのは、国の機関である裁判所の手続きなわけで、それを利用する私人と国家の関係を規律しているということができるわけです。
この、私法と公法の区別というのは、伝統的によく使われたものなのですが、やはり微妙な法分野ってのが多々あって、また、定義もはっきりと決まっているわけではなく、ある法律が私法に入るか公法に入るかは、定義とか法体系とかによって(国によっても)変わってきます。
例えば、公法は憲法と行政法のみを指し、その他は私法だという分類の仕方もあります。
実際にフランスなどでは、刑法は私法に分類されています。
日本においても、憲法と行政法だけを(狭義の)公法と定義づける場合もありますので、その意味での「公法」からは、刑法は外れることになります。
この場合は、「私法と公法」に二分した一方の意味ではなく、数ある法分野のひとつとしての「公法」という意味ですから、「公法」から外れた刑法が「私法」に分類されるというわけではありません。
民法は私法、行政法は公法、刑法は刑法という感じですね。
このように、伝統的に広く用いられている私法と公法の分類ですが、なかなか曖昧なものなのです。
そもそも、私法の要素も公法の要素も入った法律もたくさんあります(経済法とか社会法とかいわれる分野は特にそうです)。
「公法分野には私法の法理は適用されない」という伝統的な考え方の下では私法と公法の分類は意味があったのですが、最近では、その考え方は否定されています(行政法分野でも私法の考え方が適用される)。
そうなると、伝統的に私法と公法に分ける二元論(二分論)的な考え方は、あまり意味がない…という指摘も有力です。
つまり、例えば「刑法は公法である」ということをいっても、ここから何の結論も導かれないのです。
刑法の解釈をするうえでは、別に刑法が私法であっても構わないんですね。
まあ、そうはいっても、批判はあるものの、今でも私法と公法という分類は(実益があるかどうかは別として)使われているので、知っていると便利です。
分類方法がはっきりしていないとはいえ、民法を公法に分類したり、憲法を私法に分類したりすることはないでしょうから、ある程度は予想できます。
もし、公法の中に刑法とか民事訴訟法とかが入ってたら「伝統的な二分論の意味での公法だな」と考えればいいし、公法に憲法と行政法だけが入ってたら「そっちかー、そっちの意味の公法かー」と納得しておきましょう。
では、今日はこの辺で。
2013年6月23日日曜日
余った給食を調理員が食べることの是非
給食の調理員が、余った給食を食べていたことが発覚して、少し前に問題になりました。
「もったいない」か「役得」か、余った「給食」を食べていた保育所調理員たちの行為は“悪”なのか(産経新聞)
コンビニで廃棄される賞味期限切れの弁当をバイトがもらうのと似ていますが、問題は、給食は生徒(の保護者)が給食費を払っているという点ですね。
余った給食は廃棄されることになるが、まだ食べられるものなんだから、捨てるのはもったいない。
また、どうせ廃棄されるものなのだから、食べたとしても誰にも損害は与えていない。
確かにその給食の材料は給食費から出ていますが、余る分というのは欠席者とかの分なので、もともと余る分(つまりはゴミになる分)まで材料は買わなければならないし、作っておかなければならないものです。
調理員が食べないことで材料費を抑えられるというなら、その分生徒側に損をさせていることになりますが、仮に調理員が食べなかったとしても、それはゴミになるだけで、材料費が節約できるわけでもない。
もちろん、他方で、「食べるんだったら、その分きちんと金払え」と決めれば、その分収入が増えることになるので、その利益分が損失だと考えられなくもないですけど、食べなきゃゴミになるもので、金を払うよう求めるようなことかな…と思います。
それで得られる収入なんて微々たるものですし。
そう考えると、役得といえば役得ですが、誰の懐も痛まない役得なので、私は別に余った分は食べてもいいと思うんですよね。
給食費を払っている側からすると、何となく損した気分になるかもしれませんけど…。
仮に私が給食費を払っている側だったとして、調理員がタダであまり分を食べていても、あんまり気にしないかなぁ。
皆さんはどうでしょう?
「もったいない」か「役得」か、余った「給食」を食べていた保育所調理員たちの行為は“悪”なのか(産経新聞)
「もったいない」。そんな理由から、兵庫県西宮市の半数以上の公立保育所で調理員らが余った給食を食べていたことが明らかになった。余った給食は廃棄される決まりで、保育所長会でも「食べてはいけない」と取り決めていたが、周知徹底されていなかった。この問題で市は、所管部署の幹部らを文書訓告としたものの、調理員らについては「食べてはだめと知らなかった」として処分を見送った。「食べてはいけない」という決まりがあって、(周知されていなかったとはいえ)それを守っていなかったという意味では、形式的にはルール違反(悪いこと)であることは確かでしょうが、では、仮にそういうルールがないとして、余った給食を食べるのは「悪いこと」「禁止すべき」でしょうか。
コンビニで廃棄される賞味期限切れの弁当をバイトがもらうのと似ていますが、問題は、給食は生徒(の保護者)が給食費を払っているという点ですね。
余った給食は廃棄されることになるが、まだ食べられるものなんだから、捨てるのはもったいない。
また、どうせ廃棄されるものなのだから、食べたとしても誰にも損害は与えていない。
確かにその給食の材料は給食費から出ていますが、余る分というのは欠席者とかの分なので、もともと余る分(つまりはゴミになる分)まで材料は買わなければならないし、作っておかなければならないものです。
調理員が食べないことで材料費を抑えられるというなら、その分生徒側に損をさせていることになりますが、仮に調理員が食べなかったとしても、それはゴミになるだけで、材料費が節約できるわけでもない。
もちろん、他方で、「食べるんだったら、その分きちんと金払え」と決めれば、その分収入が増えることになるので、その利益分が損失だと考えられなくもないですけど、食べなきゃゴミになるもので、金を払うよう求めるようなことかな…と思います。
それで得られる収入なんて微々たるものですし。
そう考えると、役得といえば役得ですが、誰の懐も痛まない役得なので、私は別に余った分は食べてもいいと思うんですよね。
給食費を払っている側からすると、何となく損した気分になるかもしれませんけど…。
仮に私が給食費を払っている側だったとして、調理員がタダであまり分を食べていても、あんまり気にしないかなぁ。
皆さんはどうでしょう?
2013年6月21日金曜日
日本国憲法の条文だけを読む意義
司法書士の岡川です
昨日、NHKで特集をやっていたが、日本国憲法の条文をそのまま読むというのが流行っているらしいですね。
そして、条文そのまま掲載した本というのが、コンビニで買えるそうです。
それはそれで読みたい人が読めばいいのですけど、それを読んで憲法を理解した気になるのは危険です。
というか、どんなに穴があくほど読み込んでも、絶対に憲法の「理解」する域には到達できませんので、それで本当に理解したと思うのなら、それは大きな間違いであると断言しておきましょう。
「日本国憲法」を文学作品か何かと勘違いされている方もおられるようですが、日本国憲法も所詮はひとつの「法」です。
日本における最高規範であり、その点で極めて大きな価値を有しているものですが、そうはいっても、せいぜい日本の法秩序の中の最高位にあるに過ぎないのであって、それ以上に高次元にあるナニカではありません。
万物の理を体現していたり、宇宙の法則を超越しているような、高尚なものでもありません。
もちろん、信仰の対象となるような聖典でもない。
憲法に限らず、法令の内容をきちんと理解するには、条文を読むことが絶対に必要ですが、条文を読むことだけでは十分条件からは程遠いものです。
法とは、条文に書かれた内容だけで成り立つものではありません。
法の内容は、条文から一意に定まるものではないからこそ、学説の対立が生じるし、裁判でも争いが起こるのです。
仮に六法全書の内容を一言一句違わず丸暗記したとしても、それだけでは何の役にも立ちません。
条文の文言、立法趣旨、歴史的経緯、他の法令との関係、判例、いろいろな要素が組み合わさって、法が現実のものとして適用されるに至ります。
このように、法の内容を確定していく作業を、「法解釈」といい、いかなる法令でも法解釈の作業が不可欠であるというのは、憲法とて例外ではありません。
いや、憲法というのは極めて抽象性が高いものなので、むしろ、憲法こそ解釈が必要なものなのです。
法解釈を伴わずに、ただ条文をひたすら読むというのは、無意味とはいいませんが、まあせいぜい暇つぶし程度の意味しか持ちません。
「日本国憲法の条文をただ読む」というのも、憲法に興味を持つ「きっかけ」という意味くらいはあるでしょうし、それを意図して出版されているのでしょうから、その点に限ってはよいと思いますが、「ただ読む」ことにそれ以上の意味を感じているのであれば、それは「気のせい」です。
「議論のきっかけに…」とかいうことも聞きますが、とんでもない。
条文をただ「読んだだけ」で理解した気になって議論なんか始めてしまうと、非常に面倒なことになります。
ドイツ語を読めない人がドイツ語で書かれた文献の文字を目でなぞっただけで、その中身について議論を始めるようなものです。
ドイツ語で書かれた文献に興味を持つことはよいですが、内容を理解したいなら、せめて独和辞典くらい使いましょうよ…と。
ところが、法解釈は、専門的な知識と技術が必要なものです。
「だから素人は首を突っ込むな」とは言いませんが、専門家のガイドも無しに首を突っ込むと変な方向に行きかねません。
なので、憲法を理解したければ、憲法の条文だけではなく、きちんと専門家(思想家やら社会運動家ではなく、法律の専門家)の解説を読むことをお勧めします。
そのうえで議論をすれば、きっと建設的な議論になるでしょう。
議論のために絶対必要な大前提(そして、議論をするマナーでもある)は、議論対象に関する正確な理解です。
それなしに議論をするのは、はっきり言って不毛です。
そして、それは決して条文を眺めるだけで得られるものではありません。
憲法に興味を持つことはいいことですが、「わかった気になる」のは、百害あって一利なしだと思います。
ちなみに、当然ながら日本国憲法の条文に著作権はありませんので、日本国憲法を読みたければ、ネットで公開されていますので、プリントアウトして読めば、わざわざ本を買わなくても紙とインク代だけで済みますよ。
では、今日はこの辺で。
法解釈について詳しくはこちら→「法解釈とは何か」
昨日、NHKで特集をやっていたが、日本国憲法の条文をそのまま読むというのが流行っているらしいですね。
そして、条文そのまま掲載した本というのが、コンビニで買えるそうです。
それはそれで読みたい人が読めばいいのですけど、それを読んで憲法を理解した気になるのは危険です。
というか、どんなに穴があくほど読み込んでも、絶対に憲法の「理解」する域には到達できませんので、それで本当に理解したと思うのなら、それは大きな間違いであると断言しておきましょう。
「日本国憲法」を文学作品か何かと勘違いされている方もおられるようですが、日本国憲法も所詮はひとつの「法」です。
日本における最高規範であり、その点で極めて大きな価値を有しているものですが、そうはいっても、せいぜい日本の法秩序の中の最高位にあるに過ぎないのであって、それ以上に高次元にあるナニカではありません。
万物の理を体現していたり、宇宙の法則を超越しているような、高尚なものでもありません。
もちろん、信仰の対象となるような聖典でもない。
憲法に限らず、法令の内容をきちんと理解するには、条文を読むことが絶対に必要ですが、条文を読むことだけでは十分条件からは程遠いものです。
法とは、条文に書かれた内容だけで成り立つものではありません。
法の内容は、条文から一意に定まるものではないからこそ、学説の対立が生じるし、裁判でも争いが起こるのです。
仮に六法全書の内容を一言一句違わず丸暗記したとしても、それだけでは何の役にも立ちません。
条文の文言、立法趣旨、歴史的経緯、他の法令との関係、判例、いろいろな要素が組み合わさって、法が現実のものとして適用されるに至ります。
このように、法の内容を確定していく作業を、「法解釈」といい、いかなる法令でも法解釈の作業が不可欠であるというのは、憲法とて例外ではありません。
いや、憲法というのは極めて抽象性が高いものなので、むしろ、憲法こそ解釈が必要なものなのです。
法解釈を伴わずに、ただ条文をひたすら読むというのは、無意味とはいいませんが、まあせいぜい暇つぶし程度の意味しか持ちません。
「日本国憲法の条文をただ読む」というのも、憲法に興味を持つ「きっかけ」という意味くらいはあるでしょうし、それを意図して出版されているのでしょうから、その点に限ってはよいと思いますが、「ただ読む」ことにそれ以上の意味を感じているのであれば、それは「気のせい」です。
「議論のきっかけに…」とかいうことも聞きますが、とんでもない。
条文をただ「読んだだけ」で理解した気になって議論なんか始めてしまうと、非常に面倒なことになります。
ドイツ語を読めない人がドイツ語で書かれた文献の文字を目でなぞっただけで、その中身について議論を始めるようなものです。
ドイツ語で書かれた文献に興味を持つことはよいですが、内容を理解したいなら、せめて独和辞典くらい使いましょうよ…と。
ところが、法解釈は、専門的な知識と技術が必要なものです。
「だから素人は首を突っ込むな」とは言いませんが、専門家のガイドも無しに首を突っ込むと変な方向に行きかねません。
なので、憲法を理解したければ、憲法の条文だけではなく、きちんと専門家(思想家やら社会運動家ではなく、法律の専門家)の解説を読むことをお勧めします。
そのうえで議論をすれば、きっと建設的な議論になるでしょう。
議論のために絶対必要な大前提(そして、議論をするマナーでもある)は、議論対象に関する正確な理解です。
それなしに議論をするのは、はっきり言って不毛です。
そして、それは決して条文を眺めるだけで得られるものではありません。
憲法に興味を持つことはいいことですが、「わかった気になる」のは、百害あって一利なしだと思います。
ちなみに、当然ながら日本国憲法の条文に著作権はありませんので、日本国憲法を読みたければ、ネットで公開されていますので、プリントアウトして読めば、わざわざ本を買わなくても紙とインク代だけで済みますよ。
では、今日はこの辺で。
法解釈について詳しくはこちら→「法解釈とは何か」
2013年6月20日木曜日
ごみ屋敷の問題
司法書士の岡川です。
昨日の「個人の生き方には基本的に口出しできない」という話に関連しますが、いわゆる「ゴミ屋敷」というものは非常にやっかいですね。
大阪市:ごみ屋敷条例提案へ…強制撤去も可能に(毎日新聞)
そして、物の価値というのは(少なくとも日本においては)相対的なものであり、誰かが絶対的に「これは何円」と決めてくれるようなものではありません。
AKB4ナントカの握手券だろうが、ナントカ世紀エヴァンゲリオンのキャラクターのフィギュアだろうが、興味のない人にとってはただのガラクタであっても、持ち主にとっては宝物ということはよくあります。
人が何に価値を見出すかは、その人の価値観の問題なので、やはりそれに他人が(特に国家が)口出しできるものではありません。
なので、何かを絶対的に「それはゴミ」と決めつけるのはなかなか難しいのです。
これを突き詰めていくと、客観的に(世間一般の価値観に照らし合わせて)ゴミに埋もれたとしか見えない「ゴミ屋敷」も、当人にとっては、「え?うちにはゴミなんかないですけど?」ということがあり得るわけですね(まあ、本当にゴミを片付けられなくてゴミ屋敷になるパターンもありますが)。
「ゴミ屋敷」が当人の家の中だけの問題にとどまっているのであれば、特に問題ありません。
しかし、悪臭や害虫等の衛生上の問題、火災の危険などは、近隣住民に影響を与えるものですし、ゴミが家の外に出ているのであれば、通行の邪魔になります。
そうなると、「個人の生き方の問題」では済まなくなります。
ところが、勝手に近隣住民がゴミを撤去するわけにはいきません。
たとえどんなに迷惑なゴミ屋敷だとしても、勝手に人の家に入って行って、中の物を撤去することは許されません。
他人に何かを強制する(あるいは、他人に対して実力行使をする)には、必ず司法手続を経なければならないとされています。
もしかしたら、本当に「ゴミではない」かもしれないし、近隣住民の思い込みかもしれない。
なので、司法機関(裁判所)にまず判断を仰がなければならないとうのが、法治国家の原則なのです
これを「自力救済の禁止」といいます。
そうすると、例えば、近隣住民が妨害予防請求とか妨害排除請求訴訟を起こす、そしてさらに強制執行手続を経れば合法的にゴミを撤去できます。
費用は、何十万、何百万かかるかわかりませんが、金があるならやってやれないことはない。
が、近隣住民としては、なんでそんなことせなあかんの?って話ですよね。
もちろん、法律の建前上、費用は相手に請求できるんですけど、相手が無資力なら実際上は回収できません。
理不尽この上ない。
そこで、行政が代わりに撤去する制度が必要になるわけです。
今回の大阪市の条例も、そのための根拠規定を創設するものです。
最初に述べた通り、ゴミなのか財産なのかの線引きは難しいので、公権力が強制的にゴミを撤去する仕組みというのは、なかなか難しいものです。
本人にとっては財産なのですから、その人の視点でいえば、「強制的に財産を奪われる制度」ですからね。
あとで損害賠償請求でもされたらたまったものじゃない。
また、他方では、本来ゴミ掃除は住人の責任でやるべきものなので(もっと意地悪なことをいえば、迷惑を被っている近隣住民が自分で裁判起こしたらいいので)、なんで税金で片付けするの?という批判が出る可能性もあります。
行政活動は全て税金で行われますから、どこまで行政が介入するかというのも、バランスが大切になってきます。
個人の生き方を尊重しつつ、他人との利害を調整するというのは、なかなか大変なものです。
では、今日はこの辺で。
昨日の「個人の生き方には基本的に口出しできない」という話に関連しますが、いわゆる「ゴミ屋敷」というものは非常にやっかいですね。
大阪市:ごみ屋敷条例提案へ…強制撤去も可能に(毎日新聞)
大阪市は19日、住居の内外にごみをため込む「ごみ屋敷」について、市が撤去費用を負担したり、住人が指導に従わない場合に強制撤去したりすることなどを定めた条例案の骨子を公表した。ある物が「ゴミ」なのか「財産」なのかは、その物に価値があるかどうかの違いです。
(中略)
条例案では、立ち入り調査や撤去を勧告できる権限を市に与え、住人が従わない場合、弁護士や医師で作る審査会の意見に基づき、行政代執行で強制撤去できるようにする。
そして、物の価値というのは(少なくとも日本においては)相対的なものであり、誰かが絶対的に「これは何円」と決めてくれるようなものではありません。
AKB4ナントカの握手券だろうが、ナントカ世紀エヴァンゲリオンのキャラクターのフィギュアだろうが、興味のない人にとってはただのガラクタであっても、持ち主にとっては宝物ということはよくあります。
人が何に価値を見出すかは、その人の価値観の問題なので、やはりそれに他人が(特に国家が)口出しできるものではありません。
なので、何かを絶対的に「それはゴミ」と決めつけるのはなかなか難しいのです。
これを突き詰めていくと、客観的に(世間一般の価値観に照らし合わせて)ゴミに埋もれたとしか見えない「ゴミ屋敷」も、当人にとっては、「え?うちにはゴミなんかないですけど?」ということがあり得るわけですね(まあ、本当にゴミを片付けられなくてゴミ屋敷になるパターンもありますが)。
「ゴミ屋敷」が当人の家の中だけの問題にとどまっているのであれば、特に問題ありません。
しかし、悪臭や害虫等の衛生上の問題、火災の危険などは、近隣住民に影響を与えるものですし、ゴミが家の外に出ているのであれば、通行の邪魔になります。
そうなると、「個人の生き方の問題」では済まなくなります。
ところが、勝手に近隣住民がゴミを撤去するわけにはいきません。
たとえどんなに迷惑なゴミ屋敷だとしても、勝手に人の家に入って行って、中の物を撤去することは許されません。
他人に何かを強制する(あるいは、他人に対して実力行使をする)には、必ず司法手続を経なければならないとされています。
もしかしたら、本当に「ゴミではない」かもしれないし、近隣住民の思い込みかもしれない。
なので、司法機関(裁判所)にまず判断を仰がなければならないとうのが、法治国家の原則なのです
これを「自力救済の禁止」といいます。
そうすると、例えば、近隣住民が妨害予防請求とか妨害排除請求訴訟を起こす、そしてさらに強制執行手続を経れば合法的にゴミを撤去できます。
費用は、何十万、何百万かかるかわかりませんが、金があるならやってやれないことはない。
が、近隣住民としては、なんでそんなことせなあかんの?って話ですよね。
もちろん、法律の建前上、費用は相手に請求できるんですけど、相手が無資力なら実際上は回収できません。
理不尽この上ない。
そこで、行政が代わりに撤去する制度が必要になるわけです。
今回の大阪市の条例も、そのための根拠規定を創設するものです。
最初に述べた通り、ゴミなのか財産なのかの線引きは難しいので、公権力が強制的にゴミを撤去する仕組みというのは、なかなか難しいものです。
本人にとっては財産なのですから、その人の視点でいえば、「強制的に財産を奪われる制度」ですからね。
あとで損害賠償請求でもされたらたまったものじゃない。
また、他方では、本来ゴミ掃除は住人の責任でやるべきものなので(もっと意地悪なことをいえば、迷惑を被っている近隣住民が自分で裁判起こしたらいいので)、なんで税金で片付けするの?という批判が出る可能性もあります。
行政活動は全て税金で行われますから、どこまで行政が介入するかというのも、バランスが大切になってきます。
個人の生き方を尊重しつつ、他人との利害を調整するというのは、なかなか大変なものです。
では、今日はこの辺で。
2013年6月19日水曜日
日本国憲法の基本原理
司法書士の岡川です。
突如始まった「原理・原則をおさらいする」第1弾は、日本国憲法の話です。
やはりこういうのは、大原則からいったほうがいいですからね。
日本国憲法の基本原理は、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つといわれています。
「三大原理」とか「三大原則」ともいわれますが、これらは憲法の条文上に「日本国憲法の原理」として明記されているわけではなく、学説によって確立されていったものです。
なので、今ではおそらく中学校の社会の教科書に載っているはずですが、かつては、はっきりとこの3つを挙げて「基本原理」と習わなかった時代もあるようです。
さて、この基本原理は、いずれも文字通りの意味ですから、特に個々の解説はいらないですね。
中学の教科書的な解説ではなく、特に今回で述べておきたいのは、日本国憲法の基本原理というのは、「個人主義」に立脚したものだということです。
国民主権は、政治的価値の根拠を個々の国民(個人)に求める考え方から導かれるものです。
基本的人権の尊重は、まさに個々の人間を個人として尊重すべきという考えから出てくるものです。
また、個人の尊厳を保つには、平和でなければなりません。
つまり、日本国憲法では、「個人の尊厳」に最大の価値が認められているのです。
それを端的に表した条文が憲法13条であり、ここには何の留保もなく「すべて国民は、個人として尊重される」とはっきりと記されています。
「個人の尊厳」とは、「他人から見て立派に生きる」ということを意味しません。
その人がその人として尊重されるという意味です。
誰もが「個人」として尊重される以上、基本的に他人が人の生き方に口出しすることはできません。
どんな趣味嗜好を持っていようが、どう生きようが、その人の勝手(それはそれとして尊重される)といえます。
その人が本当に望んだ人生であれば、たとえ一生自分の部屋から出なくても構わないわけです。
それを他人がとやかくいう権利はありません。
もちろん、人間が社会の中で生きている以上、他者(あるいは社会)との関係で、その人の生き方が制約を受けることもあります。
実際に、個人のあらゆる行動に法律で様々な制約がかけられていますが、それは、その人の行動を許容する以上に重視すべき理由があるからです。
「人を殺す行為」は、「被害者の尊厳」を損ねる行為ですから、その範囲において、その行動は許容されないわけです。
逆にいえば、例えば「人を殺そうと考えること」なんかを制約する理由はありません。
というわけで、例えば「人の趣味嗜好を制限するような法律」が作られようとしたら、憲法の基本原理に真っ向から反している可能性がありますよ、ということです。
では、今日はこの辺で。
次回は未定。
突如始まった「原理・原則をおさらいする」第1弾は、日本国憲法の話です。
やはりこういうのは、大原則からいったほうがいいですからね。
日本国憲法の基本原理は、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つといわれています。
「三大原理」とか「三大原則」ともいわれますが、これらは憲法の条文上に「日本国憲法の原理」として明記されているわけではなく、学説によって確立されていったものです。
なので、今ではおそらく中学校の社会の教科書に載っているはずですが、かつては、はっきりとこの3つを挙げて「基本原理」と習わなかった時代もあるようです。
さて、この基本原理は、いずれも文字通りの意味ですから、特に個々の解説はいらないですね。
中学の教科書的な解説ではなく、特に今回で述べておきたいのは、日本国憲法の基本原理というのは、「個人主義」に立脚したものだということです。
国民主権は、政治的価値の根拠を個々の国民(個人)に求める考え方から導かれるものです。
基本的人権の尊重は、まさに個々の人間を個人として尊重すべきという考えから出てくるものです。
また、個人の尊厳を保つには、平和でなければなりません。
つまり、日本国憲法では、「個人の尊厳」に最大の価値が認められているのです。
それを端的に表した条文が憲法13条であり、ここには何の留保もなく「すべて国民は、個人として尊重される」とはっきりと記されています。
「個人の尊厳」とは、「他人から見て立派に生きる」ということを意味しません。
その人がその人として尊重されるという意味です。
誰もが「個人」として尊重される以上、基本的に他人が人の生き方に口出しすることはできません。
どんな趣味嗜好を持っていようが、どう生きようが、その人の勝手(それはそれとして尊重される)といえます。
その人が本当に望んだ人生であれば、たとえ一生自分の部屋から出なくても構わないわけです。
それを他人がとやかくいう権利はありません。
もちろん、人間が社会の中で生きている以上、他者(あるいは社会)との関係で、その人の生き方が制約を受けることもあります。
実際に、個人のあらゆる行動に法律で様々な制約がかけられていますが、それは、その人の行動を許容する以上に重視すべき理由があるからです。
「人を殺す行為」は、「被害者の尊厳」を損ねる行為ですから、その範囲において、その行動は許容されないわけです。
逆にいえば、例えば「人を殺そうと考えること」なんかを制約する理由はありません。
というわけで、例えば「人の趣味嗜好を制限するような法律」が作られようとしたら、憲法の基本原理に真っ向から反している可能性がありますよ、ということです。
では、今日はこの辺で。
次回は未定。
2013年6月18日火曜日
原理・原則をおさらいする
司法書士の岡川です。
法律は自然科学のように普遍的な物理法則に支配されているわけではありませんが、かといって、単なる感情論や思い付きによって決まるものでもありません。
法は国家権力の後ろ盾のある社会のルールですので、そんな場当たり的に制定されたり適用されたりすると、危なっかしくて仕方ない。
なので、そこには一般的に妥当する原理であったり原則というものが存在します。
それらは、「宇宙の誕生とともに自然発生した」ようなものではなくて、よりよい社会を作るためのひとつの解として、長い人間の歴史の蓄積の中で確立されていったものであり、時代の変化に合わせて少しずつ変更されてはいるものの、「基本的には尊重すべきもの」です。
もちろん、原則には常に例外があるもので、「原則を墨守すれば正しい」ということはありません。
しかし、原則-例外の関係でいえば、何らかの特別な事情があるから例外が認められるのであって、そのような事情がなければ、基本的には原則が妥当することになります。
特別の事情がない限り妥当するからこそ「原則」なのです。
極めて当たり前のことを書いていますが、こういう思考方法をあっさり無視する人は意外と多いもので、かつ世間的にも結構まかり通っていたりします。
「例外を認めるべきだ。認めないというなら、その根拠を出せ!」
という趣旨の主張がまさにそれですね。
これを国会やらマスコミなんかでやられてしまうと、頭がくらくらしますが、別に珍しいことではありません。
「それが原則だ」ということを(意識的か無意識的にかはわかりませんが)忘れているため、そういう論調になることもあるからです。
ところで、何かを説明するとき、とりあえず一般的に妥当する原理・原則まで遡れば、それ以上の説明は省略できます。
それよりさらに歴史的背景に迫ってみたり、哲学的な問いに答えてみたりする労力を省いて、個別の問題を検討することができるわけです。
あるいは、その原理・原則を否定しようとしたり修正を迫ったりする場合も、原理・原則を前提に話をすることができれば、議論の整理がしやすい。
そういった意味で、原理・原則を理解し、かつ、相手もそれを共通の認識として持つというのは、非常に有用です。
専門的な細かい知識を国民全員が知る必要はないとしても、せめて原理や原則は、できるだけ多くの人が「当たり前のこと」として知っておくのが望ましいですね。
そんなわけで、今後、原理や原則についていろいろ書いてみるつもりですが、今日はとりあえず導入まで。
では、今日はこの辺で。
法律は自然科学のように普遍的な物理法則に支配されているわけではありませんが、かといって、単なる感情論や思い付きによって決まるものでもありません。
法は国家権力の後ろ盾のある社会のルールですので、そんな場当たり的に制定されたり適用されたりすると、危なっかしくて仕方ない。
なので、そこには一般的に妥当する原理であったり原則というものが存在します。
それらは、「宇宙の誕生とともに自然発生した」ようなものではなくて、よりよい社会を作るためのひとつの解として、長い人間の歴史の蓄積の中で確立されていったものであり、時代の変化に合わせて少しずつ変更されてはいるものの、「基本的には尊重すべきもの」です。
もちろん、原則には常に例外があるもので、「原則を墨守すれば正しい」ということはありません。
しかし、原則-例外の関係でいえば、何らかの特別な事情があるから例外が認められるのであって、そのような事情がなければ、基本的には原則が妥当することになります。
特別の事情がない限り妥当するからこそ「原則」なのです。
極めて当たり前のことを書いていますが、こういう思考方法をあっさり無視する人は意外と多いもので、かつ世間的にも結構まかり通っていたりします。
「例外を認めるべきだ。認めないというなら、その根拠を出せ!」
という趣旨の主張がまさにそれですね。
これを国会やらマスコミなんかでやられてしまうと、頭がくらくらしますが、別に珍しいことではありません。
「それが原則だ」ということを(意識的か無意識的にかはわかりませんが)忘れているため、そういう論調になることもあるからです。
ところで、何かを説明するとき、とりあえず一般的に妥当する原理・原則まで遡れば、それ以上の説明は省略できます。
それよりさらに歴史的背景に迫ってみたり、哲学的な問いに答えてみたりする労力を省いて、個別の問題を検討することができるわけです。
あるいは、その原理・原則を否定しようとしたり修正を迫ったりする場合も、原理・原則を前提に話をすることができれば、議論の整理がしやすい。
そういった意味で、原理・原則を理解し、かつ、相手もそれを共通の認識として持つというのは、非常に有用です。
専門的な細かい知識を国民全員が知る必要はないとしても、せめて原理や原則は、できるだけ多くの人が「当たり前のこと」として知っておくのが望ましいですね。
そんなわけで、今後、原理や原則についていろいろ書いてみるつもりですが、今日はとりあえず導入まで。
では、今日はこの辺で。
2013年6月17日月曜日
2013年6月16日日曜日
痴漢サイトなりすまし真犯人の罪責
司法書士の岡川です。
例のあの事件の真犯人が見つかったようです(例のあの事件→「痴漢サイトなりすまし事件」)。
ネットで女性「私に痴漢して」実は国税職員の男
以前の記事では、「なりすました人物の罪責の検討は明日するかもしれません。」とか最後に書いておきながら、1か月放置してしまいましたが、このタイミングで考察します。
この事件をおさらいすると、
1.痴漢を呼びかけるインターネットの掲示板に「私を痴漢して」という趣旨の書きこみがされる。
2.その書き込みを見た男が、その特徴と完全に一致する女性を痴漢する。
3.被害女性は書きこんだ本人ではなく、別の第三者がその女性になりすまして書きこんでいた。
というものでした。
女性からすれば、まぎれもない痴漢被害なのですが、他方、痴漢をした男からしてみれば「被害者の承諾に基づいて体を触った」という認識です。
そして、「被害者の承諾に基づいて体を触る行為」は強制わいせつ罪を構成しません。
今回は、実際に承諾は無かったものの、「被害者の承諾についての誤認」があるわけで、この場合、故意が阻却されるのではないか?(したがって、故意犯である強制わいせつ罪は成立しないのではないか?)というのが前回の考察です。
結局、この男は処分保留で釈放されたようです。
「処分保留で釈放」とは、別に無罪放免ではなく、今は起訴するか起訴しないかを判断せずに、「とりあえず身柄の拘束を解く」というものです。
さて、おさらい終わり。
(ここからちょっと専門的な話になってしまいますが、なるべく簡単に書きます。)
実際に書き込みを行った男は、誰かに被害女性を痴漢させようとして書きこんだわけです。
もちろん、被害女性が「痴漢してほしいとは思っていない」ことは承知の上です。
単純に考えれば、「こいつこそが強制わいせつ罪の真犯人だろう」といえそうですが、実はそう単純でもない。
直接触った男に強制わいせつ罪が成立する(故意阻却が認められない)場合、書き込みを行った男には、強制わいせつ罪の教唆(唆した罪)が成立しそうです。
このとき、直接触った男が「正犯」で、書き込みをした男が「共犯」(教唆犯)です。
ところが、仮に、直接触った男の故意が阻却されるとなると、「故意のない他者を利用した犯行」ということになりますが、この場合、一般的には書き込みをした男を「正犯」と考えます。
これを「間接正犯」といいます。
(この場合に、正犯なき共犯を認める学説もあるのですが、それは華麗にスルー)
じゃあ、書きこんだ男が強制わいせつの正犯かー…となればいいのですが、必ずしもそうならない。
というのも、強制わいせつ罪の成立には、主観的要件として「わいせつの傾向」が必要な傾向犯だというのが判例です。
わいせつ傾向とは、要するに「自分の性欲を満たす意図」、もっとざっくりいえば「スケベ心」をもって犯行に及ばないと成立しないというのです。
例えば、全くエロい考えを持たずに、専ら相手を辱める意図で相手の裸を撮影したりしても、これは強制わいせつじゃない…というのが判例理論です。
この理屈には、学説はかなり否定的です(私も加害者の内心的傾向と法益侵害は無関係だと思います)が、最高裁はそう判断しました。
となると、「私を痴漢して」と書きこんだ男がどういう意図で書いたのかが重要になります。
もし、書き込みによって騙された第三者がその女性を痴漢するのを見て楽しもう…という意図なら、「わいせつの傾向あり」となるでしょう。
ところが、専らその女性に対する嫌がらせ目的だったとすれば、「わいせつの傾向がない」ため、強制わいせつ罪が成立しません。
この場合、「犯罪者なし」です(直接触った男には「故意」がなく、書きこんだ男には「わいせつの傾向」がない)。
書き込んだ男の罪を問う理論としては、
1.そもそも直接触った男の故意が阻却されず、教唆犯が成立する。
2.正犯に故意がない場合の共犯(教唆罪)の成立を認める。
3.強制わいせつ罪の構成要件として内心的傾向を不要とする。
私見では、直接触った男は故意が阻却され、他方、書きこんだ男には強制わいせつ罪の間接正犯を成立させるべき(内心的傾向を問題にしない)だと思うのですが、はてさて…。
では、今日は何かちょっとマニアック過ぎましたがこの辺で。
(追記)
結論的には、迷惑防止条例違反で逮捕されました。
例のあの事件の真犯人が見つかったようです(例のあの事件→「痴漢サイトなりすまし事件」)。
ネットで女性「私に痴漢して」実は国税職員の男
以前の記事では、「なりすました人物の罪責の検討は明日するかもしれません。」とか最後に書いておきながら、1か月放置してしまいましたが、このタイミングで考察します。
この事件をおさらいすると、
1.痴漢を呼びかけるインターネットの掲示板に「私を痴漢して」という趣旨の書きこみがされる。
2.その書き込みを見た男が、その特徴と完全に一致する女性を痴漢する。
3.被害女性は書きこんだ本人ではなく、別の第三者がその女性になりすまして書きこんでいた。
というものでした。
女性からすれば、まぎれもない痴漢被害なのですが、他方、痴漢をした男からしてみれば「被害者の承諾に基づいて体を触った」という認識です。
そして、「被害者の承諾に基づいて体を触る行為」は強制わいせつ罪を構成しません。
今回は、実際に承諾は無かったものの、「被害者の承諾についての誤認」があるわけで、この場合、故意が阻却されるのではないか?(したがって、故意犯である強制わいせつ罪は成立しないのではないか?)というのが前回の考察です。
結局、この男は処分保留で釈放されたようです。
「処分保留で釈放」とは、別に無罪放免ではなく、今は起訴するか起訴しないかを判断せずに、「とりあえず身柄の拘束を解く」というものです。
さて、おさらい終わり。
(ここからちょっと専門的な話になってしまいますが、なるべく簡単に書きます。)
実際に書き込みを行った男は、誰かに被害女性を痴漢させようとして書きこんだわけです。
もちろん、被害女性が「痴漢してほしいとは思っていない」ことは承知の上です。
単純に考えれば、「こいつこそが強制わいせつ罪の真犯人だろう」といえそうですが、実はそう単純でもない。
直接触った男に強制わいせつ罪が成立する(故意阻却が認められない)場合、書き込みを行った男には、強制わいせつ罪の教唆(唆した罪)が成立しそうです。
このとき、直接触った男が「正犯」で、書き込みをした男が「共犯」(教唆犯)です。
ところが、仮に、直接触った男の故意が阻却されるとなると、「故意のない他者を利用した犯行」ということになりますが、この場合、一般的には書き込みをした男を「正犯」と考えます。
これを「間接正犯」といいます。
(この場合に、正犯なき共犯を認める学説もあるのですが、それは華麗にスルー)
じゃあ、書きこんだ男が強制わいせつの正犯かー…となればいいのですが、必ずしもそうならない。
というのも、強制わいせつ罪の成立には、主観的要件として「わいせつの傾向」が必要な傾向犯だというのが判例です。
わいせつ傾向とは、要するに「自分の性欲を満たす意図」、もっとざっくりいえば「スケベ心」をもって犯行に及ばないと成立しないというのです。
例えば、全くエロい考えを持たずに、専ら相手を辱める意図で相手の裸を撮影したりしても、これは強制わいせつじゃない…というのが判例理論です。
この理屈には、学説はかなり否定的です(私も加害者の内心的傾向と法益侵害は無関係だと思います)が、最高裁はそう判断しました。
となると、「私を痴漢して」と書きこんだ男がどういう意図で書いたのかが重要になります。
もし、書き込みによって騙された第三者がその女性を痴漢するのを見て楽しもう…という意図なら、「わいせつの傾向あり」となるでしょう。
ところが、専らその女性に対する嫌がらせ目的だったとすれば、「わいせつの傾向がない」ため、強制わいせつ罪が成立しません。
この場合、「犯罪者なし」です(直接触った男には「故意」がなく、書きこんだ男には「わいせつの傾向」がない)。
書き込んだ男の罪を問う理論としては、
1.そもそも直接触った男の故意が阻却されず、教唆犯が成立する。
2.正犯に故意がない場合の共犯(教唆罪)の成立を認める。
3.強制わいせつ罪の構成要件として内心的傾向を不要とする。
私見では、直接触った男は故意が阻却され、他方、書きこんだ男には強制わいせつ罪の間接正犯を成立させるべき(内心的傾向を問題にしない)だと思うのですが、はてさて…。
では、今日は何かちょっとマニアック過ぎましたがこの辺で。
(追記)
結論的には、迷惑防止条例違反で逮捕されました。
2013年6月13日木曜日
刑の一部執行猶予
司法書士の岡川です。
「刑の一部執行猶予」制度が新設されました。
刑の一部執行猶予法が成立 再犯防止へ社会で更生(共同通信)
刑の一部執行猶予とはどういう制度でしょうか?
それを説明する前に、まず刑の(全部)執行猶予の制度の説明が必要です。
刑の執行猶予とは、現行刑法に規定されている制度で、文字通り「刑の執行」を「猶予」する制度です。
刑の執行とは、懲役刑や禁錮刑であれば、刑務所に収監することですから、それが「猶予」されるということは、「判決は確定したけど、しばらくの間刑務所に入らなくていいよ」というものです。
例えば、懲役なら、3年以下の懲役を言い渡された場合に執行猶予を付することができ、猶予期間は最大5年です。
この猶予された期間に、再び悪いことをしなければ(あるいは、昔の犯罪が判明したりしなければ)、刑の言渡しが効力を失います。
「懲役3年、執行猶予5年」なら、5年間おとなしくしていれば、「懲役3年」は無かったことになるわけです。
刑罰(例えば懲役)は、犯罪を予防するためにある(といわれている)のですが、必ずしも厳しければいいというものでもなく、刑務所に長期間閉じ込めておくことが、逆に社会復帰を妨げ、再犯を誘発する可能性もあります。
したがって、その弊害を避けるために、刑務所に入れずに更生を図るための制度として、執行猶予という制度が存在するわけです。
とはいえ、凶悪な犯罪者に対してはそんなことも言っておられませんし、メリットがデメリットを上回ると考えられるため、執行猶予の対象は、懲役3年以下の比較的軽い犯罪に限定されています。
さて、これが現行法上の執行猶予ですが、これに加えて「一部執行猶予」という制度が新設されました。
余談ですが、「刑の一部執行猶予法が成立」とか書いていますけど、実際は刑の一部執行猶予制度を盛り込んだ刑法等の改正法が成立したのであって、「刑の一部執行猶予法」という名の法律ができたわけではありません。
刑の一部執行猶予の対象は、3年以下の懲役又は禁錮を言い渡された場合です。
全部の執行猶予と違い、罰金の場合は含まれません。
一部を猶予する制度ですので、逆にいえば、その「一部」以外の部分は猶予されずに執行されます。
例えば、「被告人を懲役3年に処する。その刑のうち1年については、5年間執行を猶予する」みたいな判決が出るものと考えられます。
この場合、まず2年間服役します。
そして、2年後に一度釈放されて、そこから5年間猶予期間が与えられます。
この猶予期間にまた悪さをすれば、猶予されていた1年分の刑期を改めて刑務所内で過ごすことになります。
猶予期間の5年間おとなしく過ごせば、残りの1年間は無かったことになり、「懲役2年」だったことになるわけです。
「それは、仮釈放と同じでは?」という疑問もあるかもしれません。
しかし、仮釈放とはいくつかの点で異なります。
仮釈放は、刑を執行する行政の事後的な判断ですが、一部執行猶予は、裁判所が判決を言い渡す段階で決めることです。
仮釈放は、懲役3年以下の刑に限定されていません。
無期懲役でも仮釈放はあります(といっても、最近はほとんど認められなくなってきていますが)。
刑務所の外でおとなしくしなければならない期間も、1年を残して仮釈放された場合はその1年間だけですが、一部執行猶予だと、1年分を猶予する場合であっても、猶予期間は最大5年になることもあります。
仮釈放の場合、仮釈放期間中は「仮に」刑務所の外に出してもらっているだけで、刑期はその間も続いています。
仮釈放中に悪さをしたら、刑務所に戻されて残りの刑期を刑務所で過ごすことになります。
懲役3年で2年で仮釈放になり、その半年後に悪さをしたら、残りの半年は刑務所に戻る、といった感じです。
他方、刑の一部執行猶予は、2年後に一部執行猶予の身になった場合、その半年後に悪さをしたら、猶予されていた1年分の刑期を刑務所内で過ごさなければなりません。
細かい違いはいろいろありますが、仮釈放も、刑の全部の執行猶予も、刑の一部の執行猶予も、懲役の持つ弊害を避け、犯罪者の社会内処遇のメリットを活かすための制度です。
犯罪者に対する処遇は、厳しすぎてもいけませんし、緩すぎてもいけません。
実刑にするでもなく、刑の全部を猶予するわけでもなく、柔軟に対応できる制度ができたので、今後どのように運用されるかに注目ですね。
では、今日はこの辺で。
「刑の一部執行猶予」制度が新設されました。
刑の一部執行猶予法が成立 再犯防止へ社会で更生(共同通信)
刑の一部執行猶予とはどういう制度でしょうか?
それを説明する前に、まず刑の(全部)執行猶予の制度の説明が必要です。
刑の執行猶予とは、現行刑法に規定されている制度で、文字通り「刑の執行」を「猶予」する制度です。
刑の執行とは、懲役刑や禁錮刑であれば、刑務所に収監することですから、それが「猶予」されるということは、「判決は確定したけど、しばらくの間刑務所に入らなくていいよ」というものです。
例えば、懲役なら、3年以下の懲役を言い渡された場合に執行猶予を付することができ、猶予期間は最大5年です。
この猶予された期間に、再び悪いことをしなければ(あるいは、昔の犯罪が判明したりしなければ)、刑の言渡しが効力を失います。
「懲役3年、執行猶予5年」なら、5年間おとなしくしていれば、「懲役3年」は無かったことになるわけです。
刑罰(例えば懲役)は、犯罪を予防するためにある(といわれている)のですが、必ずしも厳しければいいというものでもなく、刑務所に長期間閉じ込めておくことが、逆に社会復帰を妨げ、再犯を誘発する可能性もあります。
したがって、その弊害を避けるために、刑務所に入れずに更生を図るための制度として、執行猶予という制度が存在するわけです。
とはいえ、凶悪な犯罪者に対してはそんなことも言っておられませんし、メリットがデメリットを上回ると考えられるため、執行猶予の対象は、懲役3年以下の比較的軽い犯罪に限定されています。
さて、これが現行法上の執行猶予ですが、これに加えて「一部執行猶予」という制度が新設されました。
余談ですが、「刑の一部執行猶予法が成立」とか書いていますけど、実際は刑の一部執行猶予制度を盛り込んだ刑法等の改正法が成立したのであって、「刑の一部執行猶予法」という名の法律ができたわけではありません。
刑の一部執行猶予の対象は、3年以下の懲役又は禁錮を言い渡された場合です。
全部の執行猶予と違い、罰金の場合は含まれません。
一部を猶予する制度ですので、逆にいえば、その「一部」以外の部分は猶予されずに執行されます。
例えば、「被告人を懲役3年に処する。その刑のうち1年については、5年間執行を猶予する」みたいな判決が出るものと考えられます。
この場合、まず2年間服役します。
そして、2年後に一度釈放されて、そこから5年間猶予期間が与えられます。
この猶予期間にまた悪さをすれば、猶予されていた1年分の刑期を改めて刑務所内で過ごすことになります。
猶予期間の5年間おとなしく過ごせば、残りの1年間は無かったことになり、「懲役2年」だったことになるわけです。
「それは、仮釈放と同じでは?」という疑問もあるかもしれません。
しかし、仮釈放とはいくつかの点で異なります。
仮釈放は、刑を執行する行政の事後的な判断ですが、一部執行猶予は、裁判所が判決を言い渡す段階で決めることです。
仮釈放は、懲役3年以下の刑に限定されていません。
無期懲役でも仮釈放はあります(といっても、最近はほとんど認められなくなってきていますが)。
刑務所の外でおとなしくしなければならない期間も、1年を残して仮釈放された場合はその1年間だけですが、一部執行猶予だと、1年分を猶予する場合であっても、猶予期間は最大5年になることもあります。
仮釈放の場合、仮釈放期間中は「仮に」刑務所の外に出してもらっているだけで、刑期はその間も続いています。
仮釈放中に悪さをしたら、刑務所に戻されて残りの刑期を刑務所で過ごすことになります。
懲役3年で2年で仮釈放になり、その半年後に悪さをしたら、残りの半年は刑務所に戻る、といった感じです。
他方、刑の一部執行猶予は、2年後に一部執行猶予の身になった場合、その半年後に悪さをしたら、猶予されていた1年分の刑期を刑務所内で過ごさなければなりません。
細かい違いはいろいろありますが、仮釈放も、刑の全部の執行猶予も、刑の一部の執行猶予も、懲役の持つ弊害を避け、犯罪者の社会内処遇のメリットを活かすための制度です。
犯罪者に対する処遇は、厳しすぎてもいけませんし、緩すぎてもいけません。
実刑にするでもなく、刑の全部を猶予するわけでもなく、柔軟に対応できる制度ができたので、今後どのように運用されるかに注目ですね。
では、今日はこの辺で。
2013年6月12日水曜日
道義的に問題のある県議会議員の法的責任
司法書士の岡川です。
どこかの県議会議員が病院でクレーマーと化してブログ大炎上というニュースがありましたが、その議員の主張の中に世間の賛同を得られそうな部分が全くないので、何を思ってそんなことしちゃったのか、ただただ疑問に思うばかりです。
ところで、怒って診療報酬も払わずに帰ったという悪事まで堂々と大暴露してまして、いや、そりゃ誰がどう考えても駄目でしょうと。
どっちが悪いですかと世間に問うまでもなく。
ただ、これが法的問題となると、この人の行為は別に犯罪じゃないんですよね。
なぜ犯罪じゃないかというと、単純に「当てはまる罪がないから」です。
近代国家では、「これは犯罪」として法律に列挙された行為だけが犯罪なのです。
これを罪刑法定主義といいます。
例えば、ブログで病院の悪口(っぽいこと)を書き連ねていますが、名誉を棄損するような事実の摘示は全くなく、誰の名誉も棄損されていない(しいて言えば、勝手に自分の名誉が大きく棄損されたといえそう)。
そうなると、名誉棄損罪等は関係なさそうです。
また、「病院の対応に腹を立てて金を払わず帰る」という行為に適用できる条文は、どの法律にもありません。
単純に「金を払わない」というのは、犯罪じゃないのです。
窃盗罪は、物を窃取しないといけないし、強盗や詐欺は強奪したりだましたりしないと成立しない。
もちろん、債務を免れるわけがないですので、結局払わないといけないですし、厳密に法律を適用すれば、履行遅滞で遅延損害金を支払う責任があります。
15,000円分の検査を受けた上客らしいので、1日あたり約2円の遅延損害金が発生します。
もし1週間支払いが遅れたら、遅延損害金14円ナリ。
結論。
某県議会議員の法的責任は、診療報酬を支払うまで1日あたり2円。
では、今日はこの辺で。
※注意
この記事を見て、「無銭受診は犯罪じゃない」と一般化してはいけません。最初から払うつもりもなく受診して、お金払わず帰ってきたら、詐欺罪が成立します。
その場合、病院を「騙して」診療してもらったということになるのです。
どこかの県議会議員が病院でクレーマーと化してブログ大炎上というニュースがありましたが、その議員の主張の中に世間の賛同を得られそうな部分が全くないので、何を思ってそんなことしちゃったのか、ただただ疑問に思うばかりです。
ところで、怒って診療報酬も払わずに帰ったという悪事まで堂々と大暴露してまして、いや、そりゃ誰がどう考えても駄目でしょうと。
どっちが悪いですかと世間に問うまでもなく。
ただ、これが法的問題となると、この人の行為は別に犯罪じゃないんですよね。
なぜ犯罪じゃないかというと、単純に「当てはまる罪がないから」です。
近代国家では、「これは犯罪」として法律に列挙された行為だけが犯罪なのです。
これを罪刑法定主義といいます。
例えば、ブログで病院の悪口(っぽいこと)を書き連ねていますが、名誉を棄損するような事実の摘示は全くなく、誰の名誉も棄損されていない(しいて言えば、勝手に自分の名誉が大きく棄損されたといえそう)。
そうなると、名誉棄損罪等は関係なさそうです。
また、「病院の対応に腹を立てて金を払わず帰る」という行為に適用できる条文は、どの法律にもありません。
単純に「金を払わない」というのは、犯罪じゃないのです。
窃盗罪は、物を窃取しないといけないし、強盗や詐欺は強奪したりだましたりしないと成立しない。
もちろん、債務を免れるわけがないですので、結局払わないといけないですし、厳密に法律を適用すれば、履行遅滞で遅延損害金を支払う責任があります。
15,000円分の検査を受けた上客らしいので、1日あたり約2円の遅延損害金が発生します。
もし1週間支払いが遅れたら、遅延損害金14円ナリ。
結論。
某県議会議員の法的責任は、診療報酬を支払うまで1日あたり2円。
では、今日はこの辺で。
※注意
この記事を見て、「無銭受診は犯罪じゃない」と一般化してはいけません。最初から払うつもりもなく受診して、お金払わず帰ってきたら、詐欺罪が成立します。
その場合、病院を「騙して」診療してもらったということになるのです。
2013年6月11日火曜日
成年後見制度を利用するには?
司法書士の岡川です。
成年後見シリーズ第6回目です(第4回目は、「後見人には誰がなるか?」をご覧ください)
今回はシリーズ最後ですので、成年後見制度を利用するまでの簡単な流れをご紹介します。
成年後見制度には、大きく分けて法定後見と任意後見があることをご紹介しましたが、両者は手続きが全く異なります。
申立権者は、本人・配偶者・四親等内の親族等です(他にも、市町村長や検察官が申し立てる特殊な例もあります)。
後見開始の申立てをするだけの判断能力があり、本人の意思が確認できるような状況であれば、本人が申立人となって申し立てることも可能です。
そうでない場合は、親族が申立人となって申し立てることになります。
まずは、本人の判断能力の程度と財産状況の確認です。
本人の判断能力がどの程度かを決めるのは医者の仕事なので、診断書が必要になります。
診断書を書くのは医者であれば誰でも構いませんので、必ずしも精神科や心療内科でなくてもよく、内科でも外科でも、皮膚科でも眼科でも構いません。
なので、かかりつけの医者がいれば、その医者に診断書を書いてもらえるか打診してみることになります(歯科医でもいいとか聞いたこともありますが、確認はしていません)。
もっとも、あまりにも専門外の医者は、判断能力の程度について診断書を書いてくれと頼んでも、「専門外なので書けない」と断ることが多いでしょうし、仮に書いてくれたとしても、裁判所の方でその判断の妥当性が疑問視されることになる可能性もあります。
その場合、申立て後に精神科医の「鑑定」をしなければならなくなります(これには別途費用がかかります)。
無事、診断書を書いてくれる医者が見つかれば、裁判所が用意している様式がありますので、それに沿って書いてもらうことになります。
そうして医者に診断書を書いてもらっている間(2~3週間程度かかることもあります)に、同時進行で本人の財産状況を確認します。
預金残高を確認したり、各種契約内容や年金等の受給内容を確認したり、領収書をかき集めたり、とにかく、現金や預貯金、不動産、有価証券等の本人の財産を全部リストアップし、さらに、それらを基に本人の1か月の収支を計算します。
こうして作られるのが財産目録や収支予定表です。
同時に、候補者を誰にするかも決めておかなければなりません(候補者を指定せずに申し立てることも可能です)。
申立書や添付書類等、必要な書類が全部揃ったら、家庭裁判所に申し立てます。
家庭裁判所では、申立人と本人が、裁判所の参与員や調査官といった裁判所職員と面談し、事情を説明したり、提出した書類についての説明をしたりします。
書類に不備がなく、また本人や申立人との面談によって、後見を開始することがが妥当であると判断されれば、後見開始の審判がなされ、後見が開始します。
さらっと書きましたが、ここまでに場合によっては数か月程度かかることもあります。
後見開始の審判をしてしまえば、本人の財産を他人に預けることになりますし、申立ての段階では既に本人の判断能力は低下しているわけですから、申立てにはそれ相応の手順を踏む必要があるわけです。
申立書類一式は、場合によってはA4フラットファイル一冊分くらいになりますので、きちんと整理しておかないと、裁判所で、「あれはどこだ」「さっき見たぞ」とバタバタすることになります。
本人(委任者)と受任者(後見人予定者)の契約なので、当事者同士で話し合い、どういう内容の契約にするのかを決めます。
契約内容が決まったら、それを公正証書にします。
つまり、関与するのは公証人です。
司法書士等の専門職が受任者になっているような場合、その受任者が話し合いの結果を基に契約の原案を作成し、それを公証役場に提案して公正証書を作ってもらうことになります。
原案に基づいて公証人が作るものは、様式は公正証書のものに書き換えられますが、中身はほぼ原案通りのものがそのまま書き写されて作られます。
その後、語句を修正したり微調整をしつつ、公正証書作成日を決めます。
この間の公証人との打ち合わせは基本的にその受任者が行います。
そして、公正証書の内容が確定したところで、作成日を迎えることになります。
公正証書は、内容はもう打ち合わせの段階で確定しているのですが、当事者が公証役場に出向いて公証人の面前で確認し、手順を踏まなければ、法的に作成したことになりません。
予約した日に公証役場に行って、手続きを済ませれば、契約締結になります。
もちろん、任意後見契約は、契約を締結した段階ではまだ発効しません。
この後は、どういう契約をしたかによって変わってきますが、とりあえず、制度を利用するまでの手続きはここで一段落です。
手続きは以上なのですが、実際に申し立てをするとなれば、やはり、利用を検討する段階から専門家が関与することをお勧めします。
ここでの「専門家」は、司法書士と弁護士です。
法定後見の申立ては、家庭裁判所で行う手続きであり、裁判所提出書類の作成を専門とする国家資格が司法書士です。
しかも、ただ「手続きに詳しい」というだけでなく、独占業務ですから、司法書士(と弁護士)以外が申立手続に業務として関与することは犯罪になります。
任意後見の場合、契約する段階で「申立て」という手続きはありませんので、司法書士法違反の問題は生じませんが、信頼のできる相手を慎重に選びましょう。
そんなわけで、いろいろ書きましたが、後見制度を検討しているなら、地元のリーガルサポートに相談するのが一番確実だと思います。
手前味噌になりますけど、実際に後見業務に関与していて、後見制度の実態などもいろいろ耳にしてみて、自信をもって勧められるだけの実績のある団体だと思います。
では、今日はこの辺で。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」
第2回「法定後見の類型」
第3回「任意後見契約について」
第4回「後見終了後の問題」
第5回「後見人には誰がなるか?」
第6回「成年後見制度を利用するには?」 ← いまここ
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
成年後見シリーズ第6回目です(第4回目は、「後見人には誰がなるか?」をご覧ください)
今回はシリーズ最後ですので、成年後見制度を利用するまでの簡単な流れをご紹介します。
成年後見制度には、大きく分けて法定後見と任意後見があることをご紹介しましたが、両者は手続きが全く異なります。
1.法定後見を利用するには?
法定後見(保佐・補助も同じです)は、申立権者が家庭裁判所に後見開始の申立てをしなければなりません。申立権者は、本人・配偶者・四親等内の親族等です(他にも、市町村長や検察官が申し立てる特殊な例もあります)。
後見開始の申立てをするだけの判断能力があり、本人の意思が確認できるような状況であれば、本人が申立人となって申し立てることも可能です。
そうでない場合は、親族が申立人となって申し立てることになります。
まずは、本人の判断能力の程度と財産状況の確認です。
本人の判断能力がどの程度かを決めるのは医者の仕事なので、診断書が必要になります。
診断書を書くのは医者であれば誰でも構いませんので、必ずしも精神科や心療内科でなくてもよく、内科でも外科でも、皮膚科でも眼科でも構いません。
なので、かかりつけの医者がいれば、その医者に診断書を書いてもらえるか打診してみることになります(歯科医でもいいとか聞いたこともありますが、確認はしていません)。
もっとも、あまりにも専門外の医者は、判断能力の程度について診断書を書いてくれと頼んでも、「専門外なので書けない」と断ることが多いでしょうし、仮に書いてくれたとしても、裁判所の方でその判断の妥当性が疑問視されることになる可能性もあります。
その場合、申立て後に精神科医の「鑑定」をしなければならなくなります(これには別途費用がかかります)。
無事、診断書を書いてくれる医者が見つかれば、裁判所が用意している様式がありますので、それに沿って書いてもらうことになります。
そうして医者に診断書を書いてもらっている間(2~3週間程度かかることもあります)に、同時進行で本人の財産状況を確認します。
預金残高を確認したり、各種契約内容や年金等の受給内容を確認したり、領収書をかき集めたり、とにかく、現金や預貯金、不動産、有価証券等の本人の財産を全部リストアップし、さらに、それらを基に本人の1か月の収支を計算します。
こうして作られるのが財産目録や収支予定表です。
同時に、候補者を誰にするかも決めておかなければなりません(候補者を指定せずに申し立てることも可能です)。
申立書や添付書類等、必要な書類が全部揃ったら、家庭裁判所に申し立てます。
家庭裁判所では、申立人と本人が、裁判所の参与員や調査官といった裁判所職員と面談し、事情を説明したり、提出した書類についての説明をしたりします。
書類に不備がなく、また本人や申立人との面談によって、後見を開始することがが妥当であると判断されれば、後見開始の審判がなされ、後見が開始します。
さらっと書きましたが、ここまでに場合によっては数か月程度かかることもあります。
後見開始の審判をしてしまえば、本人の財産を他人に預けることになりますし、申立ての段階では既に本人の判断能力は低下しているわけですから、申立てにはそれ相応の手順を踏む必要があるわけです。
申立書類一式は、場合によってはA4フラットファイル一冊分くらいになりますので、きちんと整理しておかないと、裁判所で、「あれはどこだ」「さっき見たぞ」とバタバタすることになります。
2.任意後見を利用するには?
任意後見は、制度を利用しようとする段階では家庭裁判所は全く関与しません。本人(委任者)と受任者(後見人予定者)の契約なので、当事者同士で話し合い、どういう内容の契約にするのかを決めます。
契約内容が決まったら、それを公正証書にします。
つまり、関与するのは公証人です。
司法書士等の専門職が受任者になっているような場合、その受任者が話し合いの結果を基に契約の原案を作成し、それを公証役場に提案して公正証書を作ってもらうことになります。
原案に基づいて公証人が作るものは、様式は公正証書のものに書き換えられますが、中身はほぼ原案通りのものがそのまま書き写されて作られます。
その後、語句を修正したり微調整をしつつ、公正証書作成日を決めます。
この間の公証人との打ち合わせは基本的にその受任者が行います。
そして、公正証書の内容が確定したところで、作成日を迎えることになります。
公正証書は、内容はもう打ち合わせの段階で確定しているのですが、当事者が公証役場に出向いて公証人の面前で確認し、手順を踏まなければ、法的に作成したことになりません。
予約した日に公証役場に行って、手続きを済ませれば、契約締結になります。
もちろん、任意後見契約は、契約を締結した段階ではまだ発効しません。
この後は、どういう契約をしたかによって変わってきますが、とりあえず、制度を利用するまでの手続きはここで一段落です。
手続きは以上なのですが、実際に申し立てをするとなれば、やはり、利用を検討する段階から専門家が関与することをお勧めします。
ここでの「専門家」は、司法書士と弁護士です。
法定後見の申立ては、家庭裁判所で行う手続きであり、裁判所提出書類の作成を専門とする国家資格が司法書士です。
しかも、ただ「手続きに詳しい」というだけでなく、独占業務ですから、司法書士(と弁護士)以外が申立手続に業務として関与することは犯罪になります。
任意後見の場合、契約する段階で「申立て」という手続きはありませんので、司法書士法違反の問題は生じませんが、信頼のできる相手を慎重に選びましょう。
そんなわけで、いろいろ書きましたが、後見制度を検討しているなら、地元のリーガルサポートに相談するのが一番確実だと思います。
手前味噌になりますけど、実際に後見業務に関与していて、後見制度の実態などもいろいろ耳にしてみて、自信をもって勧められるだけの実績のある団体だと思います。
では、今日はこの辺で。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」
第2回「法定後見の類型」
第3回「任意後見契約について」
第4回「後見終了後の問題」
第5回「後見人には誰がなるか?」
第6回「成年後見制度を利用するには?」 ← いまここ
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
2013年6月10日月曜日
後見人には誰がなるか?
司法書士の岡川です。
成年後見シリーズ第5回目です(第4回目は、「後見終了後の問題」をご覧ください)
前回までの記事で、成年後見制度がどういうものかイメージできましたか?
今回は、成年後見制度の一番重要な点ですが、後見人等にはどういう人が就任するのか、について書こうと思います。
現在の成年後見制度が開始された当初は、親族(特に子)が就任するケースが圧倒的に多く、実に9割が親族後見人でした。
しかし、親族後見人の割合は年々減少しており、現在では5割を切っています。
逆にいえば、現在では親族以外の第三者後見人が選任される例が過半数だということです。
昨年(平成24年)、新たに選任された後見人のうち、最も多いのは「子」で、これが全体の25%程度です。
次いで多いのが、実は私たち司法書士でして、新たに選任される後見人等の約20%が司法書士です。
財産管理の制度なら弁護士?というイメージをお持ちの方もいるかもしれません。
確かに、制度が始まったとき(まだ親族以外の後見人が全国で数百人程度だったころ)は弁護士の方が多かったのですが、数年でその件数は逆転し、それ以来ずっと司法書士が先頭を走って成年後見制度を支えています。
司法書士の他には、弁護士が全体の15%程度、社会福祉士が全体の10%程度となっています。
この司法書士、弁護士、社会福祉士の三者は、特に「専門職後見人」とよばれ、司法書士と弁護士が法律の専門家として、社会福祉士が福祉制度の専門家として、いずれも「成年後見制度を担う専門職」として成年後見業務に関与しています。
また、最近では、「親族後見人」「専門職後見人」に加えて、新たに「市民後見人」という選択肢もできました。
一定の研修(これには、専門職が関与しています)を受けた市民が名簿に登載され、そこから選任される制度です。
実際の選任方法としては色々なパターンがありますが、代表的な例は次のようなものです。
まず、後見開始の申立てをする段階で後見人候補者を指名しておくパターン。
候補者としては、例えば申立人が本人の子である場合などは、自分を候補者にする場合も多いでしょう。
しかし、後見人というのはなかなか大変な仕事なので、別の人を候補者にすることもあります(前述の通り、今では親族以外の第三者後見人が過半数)。
後見開始の申し立ては、家庭裁判所の手続きですので、裁判所の手続きの専門家である司法書士が申立てに関与することが多くあります。
そこで、申立手続に関与した司法書士を候補者とすることがよく行われます。
前述の通り、司法書士は専門職として後見業務に携わっている関係から、むしろ「司法書士に後見人候補者になってもらうこと」が主たる依頼で、付随的に「申立手続も同時に依頼する」というパターンも少なくありません。
同じような理由で、弁護士を候補者にすることも可能です(弁護士も当然、申立手続を行うことができるからです)。
社会福祉士は、専門職ではありますが、法律職ではないので申立手続と候補者を両方依頼するということはできません(申立てについては、司法書士や弁護士が行い、社会福祉士が候補者になる、ということはありえます)。
申立手続に全く専門家が関与しない場合など、適当な候補者がいない場合は、候補者を指定せずに申立てすることもできます。
また、仮に候補者を出していても、裁判所が不適切だと判断すれば、その人は後見人になることができません。
(専門職が候補者になっている場合は、特段の事情がない限り、基本的にはその人が選任されるはずですが)
このような場合は、裁判所が第三者(基本的に専門職後見人)を選任します。
裁判所には専門職後見人候補者の名簿(司法書士、弁護士、社会福祉士、それぞれの名簿があります)が提出されています。
この名簿は、例えば司法書士の名簿には、司法書士の全員が載っているというわけではなく、特に後見業務に関する能力担保と適切な指導監督体制が確保された者だけが登載されています。
申立て時に候補者がいない場合は、この名簿の中から適当な人が選任されることになります。
ちなみに私も名簿(後見人候補者名簿、後見監督人候補者名簿の両方)に登載されています。
さらに、市民後見人が候補になる制度も動き始めています。
高齢者の一人暮らしの場合(かつ、管理すべき財産も多くない)など、財産管理よりもむしろ頻繁な見回りが必要な人などは、市民後見人が適当だと判断されることになるでしょう。
この場合、後見人は市民後見人名簿の中から選任される可能性もあります。
市民後見人については、まだまだ本格的にスタートしたばかりなので、どういう運用がされるかは、今後の動きを見守る必要がありますね。
次回、実際に成年後見制度を利用するまでの流れをご紹介し、とりあえずこのシリーズ一区切りとします。
では、今日はこの辺で。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」
第2回「法定後見の類型」
第3回「任意後見契約について」
第4回「後見終了後の問題」
第5回「後見人には誰がなるか?」 ← いまここ
第6回「成年後見制度を利用するには?」
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
成年後見シリーズ第5回目です(第4回目は、「後見終了後の問題」をご覧ください)
前回までの記事で、成年後見制度がどういうものかイメージできましたか?
今回は、成年後見制度の一番重要な点ですが、後見人等にはどういう人が就任するのか、について書こうと思います。
現在の成年後見制度が開始された当初は、親族(特に子)が就任するケースが圧倒的に多く、実に9割が親族後見人でした。
しかし、親族後見人の割合は年々減少しており、現在では5割を切っています。
逆にいえば、現在では親族以外の第三者後見人が選任される例が過半数だということです。
昨年(平成24年)、新たに選任された後見人のうち、最も多いのは「子」で、これが全体の25%程度です。
次いで多いのが、実は私たち司法書士でして、新たに選任される後見人等の約20%が司法書士です。
財産管理の制度なら弁護士?というイメージをお持ちの方もいるかもしれません。
確かに、制度が始まったとき(まだ親族以外の後見人が全国で数百人程度だったころ)は弁護士の方が多かったのですが、数年でその件数は逆転し、それ以来ずっと司法書士が先頭を走って成年後見制度を支えています。
司法書士の他には、弁護士が全体の15%程度、社会福祉士が全体の10%程度となっています。
この司法書士、弁護士、社会福祉士の三者は、特に「専門職後見人」とよばれ、司法書士と弁護士が法律の専門家として、社会福祉士が福祉制度の専門家として、いずれも「成年後見制度を担う専門職」として成年後見業務に関与しています。
また、最近では、「親族後見人」「専門職後見人」に加えて、新たに「市民後見人」という選択肢もできました。
一定の研修(これには、専門職が関与しています)を受けた市民が名簿に登載され、そこから選任される制度です。
実際の選任方法としては色々なパターンがありますが、代表的な例は次のようなものです。
まず、後見開始の申立てをする段階で後見人候補者を指名しておくパターン。
候補者としては、例えば申立人が本人の子である場合などは、自分を候補者にする場合も多いでしょう。
しかし、後見人というのはなかなか大変な仕事なので、別の人を候補者にすることもあります(前述の通り、今では親族以外の第三者後見人が過半数)。
後見開始の申し立ては、家庭裁判所の手続きですので、裁判所の手続きの専門家である司法書士が申立てに関与することが多くあります。
そこで、申立手続に関与した司法書士を候補者とすることがよく行われます。
前述の通り、司法書士は専門職として後見業務に携わっている関係から、むしろ「司法書士に後見人候補者になってもらうこと」が主たる依頼で、付随的に「申立手続も同時に依頼する」というパターンも少なくありません。
同じような理由で、弁護士を候補者にすることも可能です(弁護士も当然、申立手続を行うことができるからです)。
社会福祉士は、専門職ではありますが、法律職ではないので申立手続と候補者を両方依頼するということはできません(申立てについては、司法書士や弁護士が行い、社会福祉士が候補者になる、ということはありえます)。
申立手続に全く専門家が関与しない場合など、適当な候補者がいない場合は、候補者を指定せずに申立てすることもできます。
また、仮に候補者を出していても、裁判所が不適切だと判断すれば、その人は後見人になることができません。
(専門職が候補者になっている場合は、特段の事情がない限り、基本的にはその人が選任されるはずですが)
このような場合は、裁判所が第三者(基本的に専門職後見人)を選任します。
裁判所には専門職後見人候補者の名簿(司法書士、弁護士、社会福祉士、それぞれの名簿があります)が提出されています。
この名簿は、例えば司法書士の名簿には、司法書士の全員が載っているというわけではなく、特に後見業務に関する能力担保と適切な指導監督体制が確保された者だけが登載されています。
申立て時に候補者がいない場合は、この名簿の中から適当な人が選任されることになります。
ちなみに私も名簿(後見人候補者名簿、後見監督人候補者名簿の両方)に登載されています。
さらに、市民後見人が候補になる制度も動き始めています。
高齢者の一人暮らしの場合(かつ、管理すべき財産も多くない)など、財産管理よりもむしろ頻繁な見回りが必要な人などは、市民後見人が適当だと判断されることになるでしょう。
この場合、後見人は市民後見人名簿の中から選任される可能性もあります。
市民後見人については、まだまだ本格的にスタートしたばかりなので、どういう運用がされるかは、今後の動きを見守る必要がありますね。
次回、実際に成年後見制度を利用するまでの流れをご紹介し、とりあえずこのシリーズ一区切りとします。
では、今日はこの辺で。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」
第2回「法定後見の類型」
第3回「任意後見契約について」
第4回「後見終了後の問題」
第5回「後見人には誰がなるか?」 ← いまここ
第6回「成年後見制度を利用するには?」
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
2013年6月8日土曜日
後見終了後の問題
司法書士の岡川です。
成年後見シリーズ第4回目です(第3回目は、「任意後見契約について」をご覧ください)
今日は、後見終了後の問題です。
後見が終了する原因はいろいろ(例えば、後見人が裁判所に解任される等)ありますが、もっとも一般的なのは、「本人の死亡」です。
成年後見制度は、本人の生活を支援する制度ですから、本人が亡くなられた後のことについては基本的に関知しません。
後見人等は、判断能力が不十分な方の財産を“本人のために”守る立場にありますが、本人が亡くなった後は、その財産はすべて相続人のものになるわけで、後見人等が“相続人のために”財産を守る理由がないからです。
そのため、本人死亡と同時に「後見人」としての一切の権限がなくなります。
実は、後見制度で最も悩ましい問題のひとつが、この点です。
人が亡くなった場合、亡くなった方に関して、いろいろとするべきことがあります。
例えば、役所に死亡届を出したり、葬儀や埋葬・永代供養の手配をしたり、親族等に連絡したり、遺品を整理したり、住居や家財道具を処分したり…。
後見人が相続人である場合や、相続人が近くにいてスムーズに財産を引き渡すことができる場合だと、あとのことは全部相続人に任せればよいのですが、そうでない場合、そういった「死後事務」を誰がするのかが問題になります。
制度上、“後見人だった人”に課せられた義務は、管理財産を整理して相続人に引き継ぐことだけで、葬儀の手配をしたり、引き続き家賃を支払ったりする義務は全くありません。
しかし、実際に本人の生前の諸手続を一手に引き受けており、死後も(相続人に引き渡すまで)財産を保管しているのは、“後見人だった人”です。
となると、他に誰もする人がいない以上は、現実問題として“後見人だった人”がやらざるを得ません。
しかも、それらは「後見人としての業務」としては認められないので、いくら事務処理をしても、それに対する後見人報酬は支払われません。
また、“後見人だった人”には、本人の預金(これは、既に相続財産になっている)を勝手に引き出したりする権限もありませんから、事務処理費用をどうするかという問題もあります。
これは、法改正が求められている点なのですが、法定後見の現状はそうなっています。
この点、任意後見契約の場合、こういう事態を回避することができます。
それが、前回の最後に書いた「死後事務委任契約」です。
任意後見契約締結と同時に、「死後事務委任契約」という「自分が死んだ後の事務処理を委任する契約」を締結しておくわけです。
この契約があれば、“後見人だった人”は、本人の死後、“死後事務委任契約の受任者”という立場で事務を処理します。
葬儀等の手配でも菩提寺との連絡でも、何を委任したいかは契約ですので、自由に決められます。
事務処理費用についても、事務処理に対する報酬についても、生前に契約で決めておくことができます。
全ての事務処理を済ませた後、相続人がいれば相続人に、相続人がいなければ相続財産管理人の選任申立をするなどして、管理財産を引き渡します。
相続人や親族が近くにいないような方が任意後見契約を締結する場合、同時に死後事務委任契約を締結することを推奨します。
後見制度の利用を検討する場合は、後見が終了した後のことまでしっかりと考えておくべきでしょう。
次回は、どんな人が後見人になるのかを書きます。
では、今日はこの辺で。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」
第2回「法定後見の類型」
第3回「任意後見契約について」
第4回「後見終了後の問題」 ← いまここ
第5回「後見人には誰がなるか?」
第6回「成年後見制度を利用するには?」
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
成年後見シリーズ第4回目です(第3回目は、「任意後見契約について」をご覧ください)
今日は、後見終了後の問題です。
後見が終了する原因はいろいろ(例えば、後見人が裁判所に解任される等)ありますが、もっとも一般的なのは、「本人の死亡」です。
成年後見制度は、本人の生活を支援する制度ですから、本人が亡くなられた後のことについては基本的に関知しません。
後見人等は、判断能力が不十分な方の財産を“本人のために”守る立場にありますが、本人が亡くなった後は、その財産はすべて相続人のものになるわけで、後見人等が“相続人のために”財産を守る理由がないからです。
そのため、本人死亡と同時に「後見人」としての一切の権限がなくなります。
実は、後見制度で最も悩ましい問題のひとつが、この点です。
人が亡くなった場合、亡くなった方に関して、いろいろとするべきことがあります。
例えば、役所に死亡届を出したり、葬儀や埋葬・永代供養の手配をしたり、親族等に連絡したり、遺品を整理したり、住居や家財道具を処分したり…。
後見人が相続人である場合や、相続人が近くにいてスムーズに財産を引き渡すことができる場合だと、あとのことは全部相続人に任せればよいのですが、そうでない場合、そういった「死後事務」を誰がするのかが問題になります。
制度上、“後見人だった人”に課せられた義務は、管理財産を整理して相続人に引き継ぐことだけで、葬儀の手配をしたり、引き続き家賃を支払ったりする義務は全くありません。
しかし、実際に本人の生前の諸手続を一手に引き受けており、死後も(相続人に引き渡すまで)財産を保管しているのは、“後見人だった人”です。
となると、他に誰もする人がいない以上は、現実問題として“後見人だった人”がやらざるを得ません。
しかも、それらは「後見人としての業務」としては認められないので、いくら事務処理をしても、それに対する後見人報酬は支払われません。
また、“後見人だった人”には、本人の預金(これは、既に相続財産になっている)を勝手に引き出したりする権限もありませんから、事務処理費用をどうするかという問題もあります。
これは、法改正が求められている点なのですが、法定後見の現状はそうなっています。
この点、任意後見契約の場合、こういう事態を回避することができます。
それが、前回の最後に書いた「死後事務委任契約」です。
任意後見契約締結と同時に、「死後事務委任契約」という「自分が死んだ後の事務処理を委任する契約」を締結しておくわけです。
この契約があれば、“後見人だった人”は、本人の死後、“死後事務委任契約の受任者”という立場で事務を処理します。
葬儀等の手配でも菩提寺との連絡でも、何を委任したいかは契約ですので、自由に決められます。
事務処理費用についても、事務処理に対する報酬についても、生前に契約で決めておくことができます。
全ての事務処理を済ませた後、相続人がいれば相続人に、相続人がいなければ相続財産管理人の選任申立をするなどして、管理財産を引き渡します。
相続人や親族が近くにいないような方が任意後見契約を締結する場合、同時に死後事務委任契約を締結することを推奨します。
後見制度の利用を検討する場合は、後見が終了した後のことまでしっかりと考えておくべきでしょう。
次回は、どんな人が後見人になるのかを書きます。
では、今日はこの辺で。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」
第2回「法定後見の類型」
第3回「任意後見契約について」
第4回「後見終了後の問題」 ← いまここ
第5回「後見人には誰がなるか?」
第6回「成年後見制度を利用するには?」
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
2013年6月6日木曜日
任意後見契約について
司法書士の岡川です。
成年後見シリーズ第3回目です(第2回目は、「法定後見の類型」をご覧ください)
今回は任意後見制度についてご紹介します。
任意後見契約とは、「将来判断能力が低下したときに財産管理を委任する」という内容の契約です。
法定後見とは異なり、家庭裁判所に申し立てるのではなく、当事者同士が契約をすることによって成立します。
ただし、契約締結時にすぐ契約が発効するわけではありません。
将来、判断能力が衰えた段階で、「任意後見監督人」の選任を申し立て、後見監督が開始された段階で発効します。
法定後見と違って、後見・保佐・補助といった区別はなく、後見人にどこまで委任するかは、契約(当事者同士の合意)次第できまります。
もっとも、法定後見人や保佐人のように、任意後見人には同意権や取消権を付与することはできません。
したがって、契約が発効した後の支援の仕方としては、補助類型に近いと考えていただければよいと思います。
ただし、補助人のように同意権を付与することはできませんし、絶対に監督人がつきます(補助人に監督人がつくかどうかはケースバイケースです)。
任意後見契約の内容は、法律で定められた一定の枠内であれば、比較的自由に決めることができます。
委任者の希望に基づき、何を委任し、何を委任しないのか、当事者同士で細かく決めていくことに法定後見との違いです(この点も補助と類似しますが、補助より自由に決めることができます)。
このように、任意後見契約自体は、代理権の範囲が千差万別であり、法定後見のように類型化されるものではありませんが、特に専門職を後見人(予定者)として契約する場合、任意後見契約だけを単独で契約することはなく、同時に複数の契約を締結することが一般的です。
そして、「同時にどのような契約を締結するか」によって、任意後見にも4つの型が考えられます。
それが、「将来型」「段階型」「移行型」「即効型」です。
先に述べた通り、任意後見契約は、判断能力が低下した後に後見監督人が選任されて、初めて発効するものなので、それまでは、任意後見契約の受任者は基本的にやることがありません。
そこで、定期的に電話や面談で安否確認をし、委任者の生活状況を確認する「見守り契約」を同時に締結することになります。
これを締結しておけば、委任者が元気な間は、定期的な見守りによって支援し、もし、判断能力に低下がみられると、その段階ですぐに任意後見監督人選任申立をすることで、速やかに任意後見契約を発効させることができます。
任意後見契約が発効した後は、受任者は後見人として財産管理を行うことになります。
まず、契約成立した段階では、見守り契約が発効します。この段階は、「将来型」と同じです。
その後、例えば、委任者が病気などで、身体が不自由になった場合、「任意代理契約(財産管理等委任契約)」を発効させます。
任意後見契約は、判断能力が低下しなければ発効させることはできませんので、「任意代理契約(財産管理等委任契約)」は、判断能力の低下がない段階で、財産管理を任せるための契約です。
その後、委任者に判断能力の低下がみられると、任意後見監督人の選任を申し立てれば任意後見契約が発効します。
段階型と違い、見守り契約を締結することなく、契約成立段階からすぐに財産管理を発効させるるものです。
契約締結時に、既に委任者の身体が不自由な場合などは、最初から財産管理を任せてしまうことができます。
その後、委任者の判断能力が低下した場合に任意後見契約を発効させる手続きは、将来型や段階型と同じです。
契約締結時に既に判断能力の低下が認められる場合に、契約成立と発効を連続して行うものです(手続きのために多少の間はあります)。
ただ、即効型というのは、既に判断能力が低下しているのですから、契約が有効に成立するかという点に疑義が生じる可能性がありますし、法定後見と任意後見の違いの説明で書いたとおり、任意後見は基本的に判断能力が低下する前の段階で、将来のために契約するものです。
既に判断能力が低下しているのであれば、法定後見を申し立てるべきですし、契約をできる程度の判断能力があるのであれば、「補助」を申し立てることになるかと思います。
したがって、即効型は、何らかの特別な事情がある場合にのみ利用すべき類型だと考えておくべきでしょう。
逆にいえば、特別な事情がある場合にも、臨機応変に対応できるのが任意後見契約だともいえます。
このように、任意後見契約には4つのパターンがありますが、その契約内容としては、状況に応じて多種多様なことを決めることになりますので、当事者や関係者でよく話し合って決めなければなりません。
さて、任意後見契約と同時に締結する契約としては、もうひとつ「死後事務委任契約」というものがあります。
これは、上記の4つのどの型にも追加することができる契約で、いわば「オプション」の契約です。
これについては、次回「死後の問題」で取り上げます。
では、今日はこの辺で。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」
第2回「法定後見の類型」
第3回「任意後見契約について」 ← いまここ
第4回「後見終了後の問題」
第5回「後見人には誰がなるか?」
第6回「成年後見制度を利用するには?」
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
成年後見シリーズ第3回目です(第2回目は、「法定後見の類型」をご覧ください)
今回は任意後見制度についてご紹介します。
任意後見契約とは、「将来判断能力が低下したときに財産管理を委任する」という内容の契約です。
法定後見とは異なり、家庭裁判所に申し立てるのではなく、当事者同士が契約をすることによって成立します。
ただし、契約締結時にすぐ契約が発効するわけではありません。
将来、判断能力が衰えた段階で、「任意後見監督人」の選任を申し立て、後見監督が開始された段階で発効します。
法定後見と違って、後見・保佐・補助といった区別はなく、後見人にどこまで委任するかは、契約(当事者同士の合意)次第できまります。
もっとも、法定後見人や保佐人のように、任意後見人には同意権や取消権を付与することはできません。
したがって、契約が発効した後の支援の仕方としては、補助類型に近いと考えていただければよいと思います。
ただし、補助人のように同意権を付与することはできませんし、絶対に監督人がつきます(補助人に監督人がつくかどうかはケースバイケースです)。
任意後見契約の内容は、法律で定められた一定の枠内であれば、比較的自由に決めることができます。
委任者の希望に基づき、何を委任し、何を委任しないのか、当事者同士で細かく決めていくことに法定後見との違いです(この点も補助と類似しますが、補助より自由に決めることができます)。
このように、任意後見契約自体は、代理権の範囲が千差万別であり、法定後見のように類型化されるものではありませんが、特に専門職を後見人(予定者)として契約する場合、任意後見契約だけを単独で契約することはなく、同時に複数の契約を締結することが一般的です。
そして、「同時にどのような契約を締結するか」によって、任意後見にも4つの型が考えられます。
それが、「将来型」「段階型」「移行型」「即効型」です。
1.将来型
将来型任意後見契約は、本体の任意後見契約と同時に「見守り契約」を締結するパターンです。先に述べた通り、任意後見契約は、判断能力が低下した後に後見監督人が選任されて、初めて発効するものなので、それまでは、任意後見契約の受任者は基本的にやることがありません。
そこで、定期的に電話や面談で安否確認をし、委任者の生活状況を確認する「見守り契約」を同時に締結することになります。
これを締結しておけば、委任者が元気な間は、定期的な見守りによって支援し、もし、判断能力に低下がみられると、その段階ですぐに任意後見監督人選任申立をすることで、速やかに任意後見契約を発効させることができます。
任意後見契約が発効した後は、受任者は後見人として財産管理を行うことになります。
2.段階型
段階型任意後見契約は、本体の任意後見契約と同時に、「見守り契約」と「任意代理契約(財産管理等委任契約)」を締結するパターンですまず、契約成立した段階では、見守り契約が発効します。この段階は、「将来型」と同じです。
その後、例えば、委任者が病気などで、身体が不自由になった場合、「任意代理契約(財産管理等委任契約)」を発効させます。
任意後見契約は、判断能力が低下しなければ発効させることはできませんので、「任意代理契約(財産管理等委任契約)」は、判断能力の低下がない段階で、財産管理を任せるための契約です。
その後、委任者に判断能力の低下がみられると、任意後見監督人の選任を申し立てれば任意後見契約が発効します。
3.移行型
移行型任意後見契約は、本体の任意後見契約と同時に、「任意代理契約(財産管理等委任契約)」を締結するパターンです。段階型と違い、見守り契約を締結することなく、契約成立段階からすぐに財産管理を発効させるるものです。
契約締結時に、既に委任者の身体が不自由な場合などは、最初から財産管理を任せてしまうことができます。
その後、委任者の判断能力が低下した場合に任意後見契約を発効させる手続きは、将来型や段階型と同じです。
4.即効型
即効型任意後見契約は、任意後見契約を単独で契約し、さらに間を空けずに任意後見監督人の選任申立をするというパターンです。契約締結時に既に判断能力の低下が認められる場合に、契約成立と発効を連続して行うものです(手続きのために多少の間はあります)。
ただ、即効型というのは、既に判断能力が低下しているのですから、契約が有効に成立するかという点に疑義が生じる可能性がありますし、法定後見と任意後見の違いの説明で書いたとおり、任意後見は基本的に判断能力が低下する前の段階で、将来のために契約するものです。
既に判断能力が低下しているのであれば、法定後見を申し立てるべきですし、契約をできる程度の判断能力があるのであれば、「補助」を申し立てることになるかと思います。
したがって、即効型は、何らかの特別な事情がある場合にのみ利用すべき類型だと考えておくべきでしょう。
逆にいえば、特別な事情がある場合にも、臨機応変に対応できるのが任意後見契約だともいえます。
このように、任意後見契約には4つのパターンがありますが、その契約内容としては、状況に応じて多種多様なことを決めることになりますので、当事者や関係者でよく話し合って決めなければなりません。
さて、任意後見契約と同時に締結する契約としては、もうひとつ「死後事務委任契約」というものがあります。
これは、上記の4つのどの型にも追加することができる契約で、いわば「オプション」の契約です。
これについては、次回「死後の問題」で取り上げます。
では、今日はこの辺で。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」
第2回「法定後見の類型」
第3回「任意後見契約について」 ← いまここ
第4回「後見終了後の問題」
第5回「後見人には誰がなるか?」
第6回「成年後見制度を利用するには?」
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
2013年6月5日水曜日
法定後見の類型
司法書士の岡川です。
成年後見シリーズ第2回目です(第1回目は、「成年後見制度入門」をご覧ください)
前回、法定後見には、「後見」「保佐」「補助」の3つの類型があると紹介しました。
今回はそれぞれの違いについてもう少し詳しくご紹介します。
目安としては、難しい契約などだけでなく、日常生活での買い物等も自分一人では難しいような場合が後見と判断されます。
3つの類型の中で、判断能力の低下が最も著しい場合の類型ですので、本人の行為が最も制限され、逆に支援者の権限が最も広範になっています。
後見が開始されると、本人は「成年被後見人」とよばれ、被後見人につく支援者は「成年後見人」といいます。
成年被後見人は、原則として、あらゆる取引が自分ではできなくなります。
銀行取引(預金を引き出したり、振り込んだりといったこと)も一切できません。
(例外的に、日用品の購入などに限って可能となっています)
「自分ではできない」というのは、仮に取引をしたとしても、それを取り消すことができるということです。
例えば、成年被後見人が何か高価なものを買ったとしても、成年後見人が取消権を行使すれば、その取引をなかったことにできます(詳しくは「行為能力の話」参照)。
その一方で、成年後見人には必ず包括的な財産管理権が付与され、あらゆる取引を成年後見人が本人に代わってすることができます。
成年後見人のように、法律で代理権が決められている人を「法定代理人」といいます。
このように、財産管理を全面的に支援者に任せるのが後見類型です。
目安としては、日常的な買い物などは自分でできるが、重要な財産の管理・処分については、1人では難しい場合が保佐と判断されます。
保佐が開始されると、本人は「被保佐人」とよばれ、被保佐人につく支援者は「保佐人」といいます。
保佐類型は(次の補助も同じですが)、原則として本人は自分で取引をすることができます。
ただし、法律に定められた重要な財産管理行為については、保佐人の同意がなければ自分で行うことができません。
同意が必要な行為は、借金をしたり人に財産を贈与したりするような、本人の不利益になる可能性が高い取引や、家を建てるような高額な取引などです。
これらの行為は、保佐人の同意を得ずに自分でした場合、取り消すことができます。
後見との違いは、「保佐人が同意を与えればやってもいい」という点で、そのため、より本人の意思を尊重できる制度になっています。
本人が取引できるので、原則として、保佐人は代理権を有していません。
とはいえ、被保佐人も判断能力が不十分な場合なので、「同意するからあとは全て自分でしなさい」というのでは、逆に本人にとって不利益が生じることがあります。
そこで、保佐人に一定の取引に関して代理権を付与するよう申し立てることが可能です。
代理権を付与された保佐人は、一定の範囲の行為に関して法定代理人になります。
保佐人には、後見人のように「あらゆる行為を代理する権限」はありませんが、申立てと裁判所の判断次第では、それに近い代理権を付与されることもあります。
ただし、家庭裁判所は、なるべく「必要最低限」の代理権だけを付与する傾向にあります。
実務上、保佐の開始を申し立てるときに、保佐人に代理権を付与するよう同時に申し立てるのが一般的ですが、もちろん、代理権のない保佐という場合もあります。
どの範囲の代理権を付与するかはケースバイケースで、本人の意思が尊重されるように、代理権の範囲を選択することになります。
後見や保佐と異なり、重要な財産の管理についても自分ではできるかもしれないが、適切にできないおそれがあり、援助が必要なことがある場合が補助になります。
補助が開始されると、本人は「被補助人」とよばれ、被補助人につく支援者は「補助人」といいます。
保佐より緩やかな類型で、基本的には、被補助人の行為は一切制限されませんし、補助人には代理権もありません。
もちろん、それでは何の意味もないので、必ず補助開始と同時に、一定の同意権や代理権を補助人に付与するよう申し立てます。
つまり、補助人には、法律上当然に付与される権限は何もないので、必要な同意権や代理権だけをピンポイントで付与することになるのです。
なので、同意権と代理権の両方を有している補助人もいれば、同意権だけ、あるいは代理権だけ有する補助人もいます。
また、何に関して同意権・代理権が付与されているかは、千差万別です。
一定の条件(例えば、日用品の購入について同意権を付与したりはできません)はありますが、ほぼオーダーメイドで決められるのが補助類型なのです。
判断能力が不十分とはいえ、まだまだ本人にできることはたくさんあるような人のため、本人の意思を最大限に尊重することが可能となる制度になっています。
では、今日はだいぶ長くなったのでこの辺で。
次回は、任意後見契約についてご紹介します。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」
第2回「法定後見の類型」 ← いまここ
第3回「任意後見契約について」
第4回「後見終了後の問題」
第5回「後見人には誰がなるか?」
第6回「成年後見制度を利用するには?」
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
成年後見シリーズ第2回目です(第1回目は、「成年後見制度入門」をご覧ください)
前回、法定後見には、「後見」「保佐」「補助」の3つの類型があると紹介しました。
今回はそれぞれの違いについてもう少し詳しくご紹介します。
1.後見
後見とは、「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある」場合に該当します。目安としては、難しい契約などだけでなく、日常生活での買い物等も自分一人では難しいような場合が後見と判断されます。
3つの類型の中で、判断能力の低下が最も著しい場合の類型ですので、本人の行為が最も制限され、逆に支援者の権限が最も広範になっています。
後見が開始されると、本人は「成年被後見人」とよばれ、被後見人につく支援者は「成年後見人」といいます。
成年被後見人は、原則として、あらゆる取引が自分ではできなくなります。
銀行取引(預金を引き出したり、振り込んだりといったこと)も一切できません。
(例外的に、日用品の購入などに限って可能となっています)
「自分ではできない」というのは、仮に取引をしたとしても、それを取り消すことができるということです。
例えば、成年被後見人が何か高価なものを買ったとしても、成年後見人が取消権を行使すれば、その取引をなかったことにできます(詳しくは「行為能力の話」参照)。
その一方で、成年後見人には必ず包括的な財産管理権が付与され、あらゆる取引を成年後見人が本人に代わってすることができます。
成年後見人のように、法律で代理権が決められている人を「法定代理人」といいます。
このように、財産管理を全面的に支援者に任せるのが後見類型です。
2.保佐
保佐とは、「精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である」場合に該当します。目安としては、日常的な買い物などは自分でできるが、重要な財産の管理・処分については、1人では難しい場合が保佐と判断されます。
保佐が開始されると、本人は「被保佐人」とよばれ、被保佐人につく支援者は「保佐人」といいます。
保佐類型は(次の補助も同じですが)、原則として本人は自分で取引をすることができます。
ただし、法律に定められた重要な財産管理行為については、保佐人の同意がなければ自分で行うことができません。
同意が必要な行為は、借金をしたり人に財産を贈与したりするような、本人の不利益になる可能性が高い取引や、家を建てるような高額な取引などです。
これらの行為は、保佐人の同意を得ずに自分でした場合、取り消すことができます。
後見との違いは、「保佐人が同意を与えればやってもいい」という点で、そのため、より本人の意思を尊重できる制度になっています。
本人が取引できるので、原則として、保佐人は代理権を有していません。
とはいえ、被保佐人も判断能力が不十分な場合なので、「同意するからあとは全て自分でしなさい」というのでは、逆に本人にとって不利益が生じることがあります。
そこで、保佐人に一定の取引に関して代理権を付与するよう申し立てることが可能です。
代理権を付与された保佐人は、一定の範囲の行為に関して法定代理人になります。
保佐人には、後見人のように「あらゆる行為を代理する権限」はありませんが、申立てと裁判所の判断次第では、それに近い代理権を付与されることもあります。
ただし、家庭裁判所は、なるべく「必要最低限」の代理権だけを付与する傾向にあります。
実務上、保佐の開始を申し立てるときに、保佐人に代理権を付与するよう同時に申し立てるのが一般的ですが、もちろん、代理権のない保佐という場合もあります。
どの範囲の代理権を付与するかはケースバイケースで、本人の意思が尊重されるように、代理権の範囲を選択することになります。
3.補助
補助とは、「精神上の障害により事理を弁識する能力が不十分である」場合に該当します。後見や保佐と異なり、重要な財産の管理についても自分ではできるかもしれないが、適切にできないおそれがあり、援助が必要なことがある場合が補助になります。
補助が開始されると、本人は「被補助人」とよばれ、被補助人につく支援者は「補助人」といいます。
保佐より緩やかな類型で、基本的には、被補助人の行為は一切制限されませんし、補助人には代理権もありません。
もちろん、それでは何の意味もないので、必ず補助開始と同時に、一定の同意権や代理権を補助人に付与するよう申し立てます。
つまり、補助人には、法律上当然に付与される権限は何もないので、必要な同意権や代理権だけをピンポイントで付与することになるのです。
なので、同意権と代理権の両方を有している補助人もいれば、同意権だけ、あるいは代理権だけ有する補助人もいます。
また、何に関して同意権・代理権が付与されているかは、千差万別です。
一定の条件(例えば、日用品の購入について同意権を付与したりはできません)はありますが、ほぼオーダーメイドで決められるのが補助類型なのです。
判断能力が不十分とはいえ、まだまだ本人にできることはたくさんあるような人のため、本人の意思を最大限に尊重することが可能となる制度になっています。
では、今日はだいぶ長くなったのでこの辺で。
次回は、任意後見契約についてご紹介します。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」
第2回「法定後見の類型」 ← いまここ
第3回「任意後見契約について」
第4回「後見終了後の問題」
第5回「後見人には誰がなるか?」
第6回「成年後見制度を利用するには?」
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
2013年6月4日火曜日
成年後見制度入門
司法書士の岡川です。
最近、いろいろと成年後見制度のことがニュースなどで話題に上っています。
例えば、被後見人に選挙権が付与されることになったとか、後見人の弁護士(しかもかなり偉い人)が金銭を着服して逮捕されたとか。
このブログでも、成年後見センター・リーガルサポートの話題を何度か書きました。
この高齢化社会(正確には、日本の現状は「高齢化」ではなく「超高齢社会」といいます)では、成年後見制度の需要が飛躍的に高まっています。
加えて、今までは、多少判断能力が衰えていても、事実上、家族が本人に代わっていろいろ(勝手に)手続きをすれば済んでいたのですが、最近は金融機関等でも、本人確認(意思確認)が厳しく要求されるようになったようで、判断能力に疑問が生じるようになると、家族が勝手に手続きを代行することは難しくなってきました。
このように、今や成年後見制度は誰にでも関係のある制度になっています。
そこで、今日から何回かに分けて、成年後見制度についてご紹介しようと思います。
具体的には、認知症の方や精神障害・知的障害をもつ方に「後見人」「保佐人」「補助人」といった支援者(以下、「後見人等」といいます)がつき、後見人等が様々な支援を行います。
この後見人等は、何をする人なのかというと、「財産管理」と「身上監護」がその職務です。
まず、財産管理ですが、後見人等には「代理権」や「同意権(取消権)」が与えられます。
「代理権」があれば、本人に代わって財産を管理したり本人に関する契約等の各種手続きを行うことができます。
自分自身ではできないことでも、代理権を有する後見人等がいれば、できることの幅が広がります。
また、「同意権(取消権)」があれば、本人が自分1人で重要な契約をすることができなくなります。
そして、同意を得ずに本人が契約した場合、それがもし本人に不利益となる契約であったら、後から問答無用で契約を取り消すことができます。
だまされて財産を奪われたような場合、「だまされた」ことを証明する必要もありません(詳しくは「行為能力の話」参照)。
そして、身上監護とは、本人の生活環境を整えたり適切な療養が受けられるように監督し、保護することです。
成年後見制度は、あくまでも本人に代わって契約を行ったり、契約に同意を与えることで、法的側面から本人をサポートする制度です。
したがって、後見人等が行う身上監護も、法的な事務であり、直接身の回りの世話をしたり介護をしたりといったものではありません。
例えば、介護が必要な人には、直接介護を行うのではなく、「適切な介護サービスを探し、契約をする」のが仕事になります。
同じ「かんご」でも、後見人等が行うのは「看護」ではなく「監護」なのです。
もちろん、親族等が後見人等になっている場合、事実上、介護なども同一人がやることになりますが、それはあくまでも親族としてしているのであって、後見人等の職務として行うわけではありません。
法定後見は、既に判断能力が不十分な方について、家庭裁判所に申し立てることで、後見人等を選任してもらう制度です。
その法定後見には、さらに「後見」「保佐」「補助」の3類型に分かれます。
他方、任意後見は、判断能力が十分ある方が、将来に備えて後見人になる方と契約(任意後見契約)を締結し、将来的に判断能力が衰えた段階で、その人が後見人に就任するという制度です。
任意後見契約は、必ず決めておくべき事項が法律で定められていますが、あくまでも「契約」ですので、法律の条件を満たせば比較的自由に内容を決めることができます。
それぞれの類型によって、後見人等の代理権の有無や範囲、取消権の有無や範囲が異なっていますので、本人の状態に合わせて類型を選択し、その人にあった支援をすることが可能になっています。
このように、ひとくちに「成年後見制度」といっても、いろんな制度があります。
次回は、法定後見の類型についてご紹介しようと思います。
では、今日はこの辺で。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」 ← いまここ
第2回「法定後見の類型」
第3回「任意後見契約について」
第4回「後見終了後の問題」
第5回「後見人には誰がなるか?」
第6回「成年後見制度を利用するには?」
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
最近、いろいろと成年後見制度のことがニュースなどで話題に上っています。
例えば、被後見人に選挙権が付与されることになったとか、後見人の弁護士(しかもかなり偉い人)が金銭を着服して逮捕されたとか。
このブログでも、成年後見センター・リーガルサポートの話題を何度か書きました。
この高齢化社会(正確には、日本の現状は「高齢化」ではなく「超高齢社会」といいます)では、成年後見制度の需要が飛躍的に高まっています。
加えて、今までは、多少判断能力が衰えていても、事実上、家族が本人に代わっていろいろ(勝手に)手続きをすれば済んでいたのですが、最近は金融機関等でも、本人確認(意思確認)が厳しく要求されるようになったようで、判断能力に疑問が生じるようになると、家族が勝手に手続きを代行することは難しくなってきました。
このように、今や成年後見制度は誰にでも関係のある制度になっています。
そこで、今日から何回かに分けて、成年後見制度についてご紹介しようと思います。
1.成年後見制度の概要
成年後見制度とは、病気や高齢のために判断能力が不十分な(衰えた)方の生活を支援する制度です。具体的には、認知症の方や精神障害・知的障害をもつ方に「後見人」「保佐人」「補助人」といった支援者(以下、「後見人等」といいます)がつき、後見人等が様々な支援を行います。
この後見人等は、何をする人なのかというと、「財産管理」と「身上監護」がその職務です。
まず、財産管理ですが、後見人等には「代理権」や「同意権(取消権)」が与えられます。
「代理権」があれば、本人に代わって財産を管理したり本人に関する契約等の各種手続きを行うことができます。
自分自身ではできないことでも、代理権を有する後見人等がいれば、できることの幅が広がります。
また、「同意権(取消権)」があれば、本人が自分1人で重要な契約をすることができなくなります。
そして、同意を得ずに本人が契約した場合、それがもし本人に不利益となる契約であったら、後から問答無用で契約を取り消すことができます。
だまされて財産を奪われたような場合、「だまされた」ことを証明する必要もありません(詳しくは「行為能力の話」参照)。
そして、身上監護とは、本人の生活環境を整えたり適切な療養が受けられるように監督し、保護することです。
成年後見制度は、あくまでも本人に代わって契約を行ったり、契約に同意を与えることで、法的側面から本人をサポートする制度です。
したがって、後見人等が行う身上監護も、法的な事務であり、直接身の回りの世話をしたり介護をしたりといったものではありません。
例えば、介護が必要な人には、直接介護を行うのではなく、「適切な介護サービスを探し、契約をする」のが仕事になります。
同じ「かんご」でも、後見人等が行うのは「看護」ではなく「監護」なのです。
もちろん、親族等が後見人等になっている場合、事実上、介護なども同一人がやることになりますが、それはあくまでも親族としてしているのであって、後見人等の職務として行うわけではありません。
2.後見制度の種類
成年後見制度には、大きく分けて2種類存在し、「法定後見」と「任意後見」があります。法定後見は、既に判断能力が不十分な方について、家庭裁判所に申し立てることで、後見人等を選任してもらう制度です。
その法定後見には、さらに「後見」「保佐」「補助」の3類型に分かれます。
他方、任意後見は、判断能力が十分ある方が、将来に備えて後見人になる方と契約(任意後見契約)を締結し、将来的に判断能力が衰えた段階で、その人が後見人に就任するという制度です。
任意後見契約は、必ず決めておくべき事項が法律で定められていますが、あくまでも「契約」ですので、法律の条件を満たせば比較的自由に内容を決めることができます。
それぞれの類型によって、後見人等の代理権の有無や範囲、取消権の有無や範囲が異なっていますので、本人の状態に合わせて類型を選択し、その人にあった支援をすることが可能になっています。
このように、ひとくちに「成年後見制度」といっても、いろんな制度があります。
次回は、法定後見の類型についてご紹介しようと思います。
では、今日はこの辺で。
成年後見シリーズ
第1回「成年後見制度入門」 ← いまここ
第2回「法定後見の類型」
第3回「任意後見契約について」
第4回「後見終了後の問題」
第5回「後見人には誰がなるか?」
第6回「成年後見制度を利用するには?」
番外編「成年後見の申立てにかかる費用」
番外編2「成年後見の申立てにかかる時間」
(このほかにも、成年後見についての記事はありますので、右上の検索窓で検索してみてください)
2013年6月3日月曜日
リーガルサポート大阪広報委員会
司法書士の岡川です。
この前、リーガルサポート大阪の総会のことを書きましたが、実は今期から、リーガルサポート大阪の広報委員に指名を受けていました。
今日、今期の第1回目の委員会が開かれ、正式に就任承諾をし、何やかんやで副委員長に選任されました。
・・・あれ?
副委員長は委員長が健在でいる限り特にこれといった仕事はないようですが、まあ、とりあえず頑張ろうと思います。
というわけで、1期2年(?)、リーガル広報委員会副委員長の岡川です。よろしくお願いします。
せっかくこういう役目を引き受けたので、このブログでも成年後見制度やリーガルサポートの活動について、いろいろご紹介しますね。
では、今日はこの辺で。
この前、リーガルサポート大阪の総会のことを書きましたが、実は今期から、リーガルサポート大阪の広報委員に指名を受けていました。
今日、今期の第1回目の委員会が開かれ、正式に就任承諾をし、何やかんやで副委員長に選任されました。
・・・あれ?
副委員長は委員長が健在でいる限り特にこれといった仕事はないようですが、まあ、とりあえず頑張ろうと思います。
というわけで、1期2年(?)、リーガル広報委員会副委員長の岡川です。よろしくお願いします。
せっかくこういう役目を引き受けたので、このブログでも成年後見制度やリーガルサポートの活動について、いろいろご紹介しますね。
では、今日はこの辺で。
2013年6月2日日曜日
書籍の購入
司法書士の岡川です。
私は、書籍(特に専門書)を購入するときの手段は、だいたい次の通りです。
1.出版社の直販
不定期に、日本加除出版とか新日本法規とかから、ダイレクトメール等で新刊や人気商品の申込書が送られてきます。
これで購入したら、特価(10%引き)で買えるので、ピンポイントで欲しい書籍があったら申し込みます。
2.honto
重宝しているのは、書籍のネット通販サイトの「honto」です。
これは定価販売ですが、基本的に1%のポイントが付きます。
このサイトのいいところは、結構頻繁にキャンペーンをやっていて、「10,000円以上まとめ買いすると1,000ポイント付与」とかいうことが多いので、ちょうど10,000円くらいになるようにまとめ買いしたりします。
専門書は、1冊4,000円とか5,000円とか6,000円とかが普通なので、10,000円分の購入というのも、特に高額というわけではありません。
欠点は、ポイントの使用期限に追われて、次から次に本を買う結果になり、今も机に読んでない本が山積みになっている点ですね。
思いっきり、店の戦略にハマってます。
昔は、amazonで買っていたこともあるのですが、いつからか本にはポイントがつかなくなったので、見限りました。
しかも、専門書は、hontoのほうが品ぞろえが良かったりしますので、もはやamazonに用はない!
(amazonでは、たまに本以外のものを買いますね)
3.法政書房
大阪地裁の地下1階に法政書房という本屋があるのですが、これは法律書ばかり置いてありまして、品ぞろえはまあまあ。
そんで、買う時に「司法書士です」と言うと、5%引きで本が買えます(バッジをつけてるときは、何も言わずに引いてくれたりも)。
急遽、何か1冊だけ欲しいときとかは、honto使わず、こっちで買います。
大学のころは、生協で安く本が買えたのですが、卒業してからは基本定価で買わなければいけないので、安く買えるところに欲しい本があれば便利です。
では、今日はこの辺で。
※くどいようですが、今日の記事も本屋のステマではありません。
私は、書籍(特に専門書)を購入するときの手段は、だいたい次の通りです。
1.出版社の直販
不定期に、日本加除出版とか新日本法規とかから、ダイレクトメール等で新刊や人気商品の申込書が送られてきます。
これで購入したら、特価(10%引き)で買えるので、ピンポイントで欲しい書籍があったら申し込みます。
2.honto
重宝しているのは、書籍のネット通販サイトの「honto」です。
これは定価販売ですが、基本的に1%のポイントが付きます。
このサイトのいいところは、結構頻繁にキャンペーンをやっていて、「10,000円以上まとめ買いすると1,000ポイント付与」とかいうことが多いので、ちょうど10,000円くらいになるようにまとめ買いしたりします。
専門書は、1冊4,000円とか5,000円とか6,000円とかが普通なので、10,000円分の購入というのも、特に高額というわけではありません。
欠点は、ポイントの使用期限に追われて、次から次に本を買う結果になり、今も机に読んでない本が山積みになっている点ですね。
思いっきり、店の戦略にハマってます。
昔は、amazonで買っていたこともあるのですが、いつからか本にはポイントがつかなくなったので、見限りました。
しかも、専門書は、hontoのほうが品ぞろえが良かったりしますので、もはやamazonに用はない!
(amazonでは、たまに本以外のものを買いますね)
3.法政書房
大阪地裁の地下1階に法政書房という本屋があるのですが、これは法律書ばかり置いてありまして、品ぞろえはまあまあ。
そんで、買う時に「司法書士です」と言うと、5%引きで本が買えます(バッジをつけてるときは、何も言わずに引いてくれたりも)。
急遽、何か1冊だけ欲しいときとかは、honto使わず、こっちで買います。
大学のころは、生協で安く本が買えたのですが、卒業してからは基本定価で買わなければいけないので、安く買えるところに欲しい本があれば便利です。
では、今日はこの辺で。
※くどいようですが、今日の記事も本屋のステマではありません。
2013年6月1日土曜日
散髪
司法書士の岡川です。
今日は散髪に行ってきました。
ついでに歯医者にも行こうと思っていたのですが、予約が取れなくて断念。
私は、大阪府の高槻市在住なのですが、散髪は、ヘアーズベリーという美容院に行っています。
この店、カットだけなら2000円を切る安さなのです。
パーマとかカラーリングとかすれば、まあまあ普通の値段になるのですが、私は基本的にカットだけに行くので、この安さは魅力的ですね。
3000円とか4000円とかする美容院でも、下手くそなところ多いですからね~。
それに比べて、2000円なら多少髪型が変になっても金銭的ダメージが少ないし、今のところそんな変な髪形にされたこともないし。
その高槻店が移転しまして、前のところから30mくらいの場所の新店舗で今日から新装オープンでした。
なんか、店の広さもスタッフも前の倍以上になっていましたね。
そしていつものことですが、この場所は、前は何があったのか全く思い出せません。
「新しい店がオープンすると、前に何があったのか全く思い出せない」現象って何か名前ついてないんですかね~?
ま、そんなところで、髪の毛もサッパリしたところで、ジメジメとした梅雨を乗り切ろうと思います。
では、今日はこの辺で。
※注:なお、今日の記事は美容院のステマではありません。
今日は散髪に行ってきました。
ついでに歯医者にも行こうと思っていたのですが、予約が取れなくて断念。
私は、大阪府の高槻市在住なのですが、散髪は、ヘアーズベリーという美容院に行っています。
この店、カットだけなら2000円を切る安さなのです。
パーマとかカラーリングとかすれば、まあまあ普通の値段になるのですが、私は基本的にカットだけに行くので、この安さは魅力的ですね。
3000円とか4000円とかする美容院でも、下手くそなところ多いですからね~。
それに比べて、2000円なら多少髪型が変になっても金銭的ダメージが少ないし、今のところそんな変な髪形にされたこともないし。
その高槻店が移転しまして、前のところから30mくらいの場所の新店舗で今日から新装オープンでした。
なんか、店の広さもスタッフも前の倍以上になっていましたね。
そしていつものことですが、この場所は、前は何があったのか全く思い出せません。
「新しい店がオープンすると、前に何があったのか全く思い出せない」現象って何か名前ついてないんですかね~?
ま、そんなところで、髪の毛もサッパリしたところで、ジメジメとした梅雨を乗り切ろうと思います。
では、今日はこの辺で。
※注:なお、今日の記事は美容院のステマではありません。