司法書士の岡川です。
名古屋の認知症患者が徘徊して列車と衝突して死亡し、遺族がJRから損害賠償を請求された事件について、最高裁判決が出ました(名古屋高裁の判決については、こちらを参照→「認知症患者の家族の損害賠償責任」)。
結論としては、JR側の請求を全て棄却し、家族の監督義務者としての損害賠償責任が否定されました。
このような事案で、介護家族の損害賠償責任を肯定してしまうと、認知症患者は家や施設内に厳重に閉じ込めておかなければならなくなります。
最高裁の判断は、極めて妥当な結論だといえます。
全ての問題が解決したわけでなく、新たな問題(今後、こういう事例で誰が被害者を救済するのか等)も生まれていますが、認知症患者を介護する家族にとって画期的な判決だといえるでしょう。
ところで、今回の判決は、成年後見制度にとっても非常に重要な内容が書かれています。
すなわち、判決理由中で「保護者や成年後見人であることだけでは直ちに法定の監督義務者に該当するということはできない」と判示されているのです。
実は、この部分は、非常に重要な意味を持っています。
介護家族の責任の問題は、ニュース等で散々報道されているので、ここでは少しそこから外れて、成年後見制度との関係で今回の判決を見ていくことにします。
民法714条では、「責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。」と規定されています。
「監督する法定の義務を負う者」とは具体的に誰なのかが問題となりますが、従来、親権者や未成年後見人とならび、精神保健福祉法上の「保護者」(ただし、保護者制度は平成25年改正により現在では廃止されています)や「成年後見人」が挙げられていました。
多くの民法(不法行為法)の基本書を始めとする各種書籍や論文において、成年後見人が法定の監督義務者にあたるというのは、あえてその理由を論じるまでもない当然の前提として紹介されています。
すなわち、法定の監督義務者とは、典型的には「本人が未成年であれば親権者、成人であれば成年後見人」であって、その他にどういう人が監督義務者にあたるか、というような議論がされてきたわけです。
これには、歴史的な背景があります。
かつての禁治産制度(成年後見制度の前身)では、禁治産者に付けられた成年後見人には、「禁治産者の資力に応じて、その療養看護に努めなければならない」とする療養看護義務が課されていました。
さらに加えて、精神保健福祉法により、成年後見人は、当然に第一順位の「保護者」になりました。
保護者には、かつては、「精神障害者に治療を受けさせるとともに、精神障害者が自身を傷つけ又は他人に害を及ぼさないように監督」する自傷他害防止監督義務が課されていました。
精神保健福祉法制定当初(まだ精神衛生法であったころ)は、保護者には精神障害者の保護拘束の権限も存在し、本人の保護というより社会防衛の側面が強い法律であったことがわかります。
このような法制度であったことから、成年後見人が民法714条にいう法定の監督義務者であるのは当然であり、かつ、成年後見人こそ民法714条の想定する典型例だと考えられていたわけです。
これがいわば従来の通説でありました。
また、判例や下級審裁判例においても、私の知る限り、直接的に成年後見人の責任が問われたものはありませんが、精神保健福祉法上の「保護者」が法定が監督義務者であるのは当然の前提とされてきました。
ところが、精神障害者をめぐる法制度に平成11年に大きな転換があります。
すなわち、禁治産制度が廃止され、精神障害者の自己決定の尊重やノーマライゼーション(残存能力の活用)といったことが理念に置かれた現行の成年後見制度が開始されます。
成年後見制度では、かつての成年後見人に課されていた禁治産者の「療養看護に勤める義務」という規定は削除され、その代わりに「成年被後見人の意思を尊重し、かつ、その心身の状態及び生活の状況に配慮しなければならない」とする身上配慮義務が課されます。
さらに、精神保健福祉法からも上記の自傷他害防止監督義務は削除され、成年後見人が当然に保護者となっても、同法上の自傷他害防止義務を負うことはなくなりました。
このように、平成11年の前後で成年後見人の法律上の地位やそれに伴う義務の内容は大きく変わっています。
同年の改正以後の成年後見人は、成年被後見人を保護する支援者であって、第三者との関係において成年被後見人の行動を監督するような立場ではなくなっています。
また、精神保健福祉法の保護者の制度は平成25年まで残りますが、これも、文字通り「本人を保護」するために治療を受けさせる義務を負ったり、医療保護入院の同意権を有しているにとどまり、社会防衛的な意味は有していません。
ところが、「法定の監督義務者の典型例は成年後見人である」という考え方が、あまりにも当然であり、通説の地位を得ていたものですから、平成11年の改正後においても、これが「通説」として通用してきました。
成年後見法分野においては、従来の「通説」はもはや通用しないという考えが広まっていたものの、民法学者(不法行為法分野)においては、根強く残っていたようです。
もちろん法改正の経緯と成年後見制度の現状を意識する学者も中にはいて、責任を限定するような見解もありましたが、そもそも「法定の監督義務者の典型例は成年後見人である」という大前提を否定する見解は少数にとどまっていたように思います(統計をとったわけではありませんが、ざっと調べた限りの印象です)。
裁判所の意識としても、平成11年以後、精神障害者の不法行為に関する裁判例がいくつか出ていますが、やはり正面から保護者や成年後見人の責任を否定することはなく、むしろ「当然の前提」とされているものが見られます。
現に、今回の原審である名古屋高裁では、成年後見人が法定の監督義務者であることを明確に前提とした法律構成となっており、仮に被告(亡くなった方の長男)が成年後見人であったならば、そのことを理由に責任が肯定されていた可能性が高いものと思われます。
ところが、今回の最高裁では、このような従来の見解が否定され、成年後見人というだけでは民法714条にいう法定の監督義務者ではないと判示されています。
理由はまさに、平成11年以後の成年後見人の法律上の地位に基づきます。
小法廷の5人の裁判官のうち、裁判長を含む4人が成年後見人は法定の監督義務者でないとしています。
そのうち、特に木内道祥裁判官の補足意見が法改正の沿革と成年後見制度の実情について詳しく述べています。
ただ、大谷剛彦裁判官の意見だけはこれと異なって、従来通り成年後見人の監督義務を肯定しています(ただし、その義務は緩和されている)。
しかし、その理由として「従前との連続性を踏まえて解釈」すべきとする論旨は理解しがたいものです。
法制度が連続性を絶っているのだから、解釈論としても連続性をもたせなければならない理由はありません。
今回の最高裁判決は、法改正の趣旨に沿ったもので、法改正前の意識を引きずっていた従来の「通説」を明確に否定する、成年後見制度にとっても、非常に大きな意義をもつ判決だといえます。
実際には家族の責任が争点になったものではありますが、それにとどまらない重要な判決になりました。
では、今日はこの辺で。
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