司法書士の岡川です。
ここ数日で、やたらと三権分立の話題を目にします。
きっかけは検察庁法改正に絡んだもので、この改正が三権分立に反するとか反しないとかいう話からのようです。
そこから派生したのか、何やら「首相官邸のホームページに掲載されている三権分立の図が間違っている(意図的に改竄されている)」といった指摘が出てきているようです。
(首相官邸HP「内閣制度の概要」より)
どこがおかしいかというと、「内閣」と「国民」との間の矢印が逆だと。
一般的には(教科書などでは)、国民から内閣に対して「世論」という矢印が出ている以下のような図が使われているからですね。
(衆議院HP「三権分立」より)
首相官邸HPの図を見て、「三権分立を理解していない」とか「行政による国民の監視(独裁・主権者国民の上に君臨)を意味している」とか「安倍政権の独裁の意識が云々…」といった批判の声が出ているようです。
しかし実は、「教科書に載っているのと違う」といっても、必ずしも首相官邸HPの図が三権分立の説明として間違いであるとはいえません。
また、首相官邸HPの図も、国民の上に行政が君臨することを意味しているとも読み取ることはできません。
順を追って解説しましょう。
そもそも、三権分立とは、国家権力を「立法」「行政」「司法」の3種類(三権)に分類し、それぞれの権力を担う国家機関を分けることで権力の集中を防ぎ、国民の自由と権利を保護するという考え方です。
三権分立というシステムは、ただ単に機関を分けるだけでは機能しませんので、三権が相互に抑制と均衡(チェックアンドバランス)を保つ仕組が必要となります。
そこで、日本国憲法において、上記のいずれの図にも三権の間に双方向に矢印が引かれているとおりの制度が用意されています。
この抑制と均衡(チェックアンドバランス)の仕組こそが、「三権分立」の本質的部分です。
この点において、首相官邸HPの図も、少なくとも「三権分立」に関して全く間違ったことは書かれていません。
正しく、「三権」が「分立」されて、その間の抑制と均衡の仕組が説明されていますからね。
三権分立の問題でなければ、何の問題なのか。
つまり、この三権と国民との関係、図でいうと、三権と真ん中の「国民」との間の矢印は何なのかです。
ここに首相官邸HPの図と一般的に用いられている図とで違いがあるわけですが、「三権」の「分立」の話ではありません。
ここは、三権と主権者国民との関係ですから、民主主義(民主制)に関する仕組、言い換えれば、国家権力の民主的統制(コントロール)に関する仕組を説明している部分です。
例えば、立法機関(国会)に対しては国会議員の選挙という形で、司法(裁判所)に対しては、極めて限定的ではありますが、国民審査という形で、それぞれ民主的統制を及ぼしています。
これに対応する形の、行政機関(内閣)と国民との間の、民主主義に関する仕組とは何か。
例えばアメリカでは、行政のトップである大統領は選挙で選ばれるので、ここには「選挙」という語が入ることになるでしょう。
しかし、そのような、行政機関に対して国民が直接的に民主的統制を及ぼす仕組は、日本国憲法においては用意されていません。
社会の教科書では、三権分立と同時に「議院内閣制」という言葉も習ったと思います。
日本の議院内閣制は、アメリカの大統領制とは異なり、立法機関である国会が、国会議員の中から、行政のトップである内閣総理大臣を選びます。
また、国会(衆議院)で内閣不信任決議をされると、内閣は総辞職をしなければなりません。
そして、「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。」(日本国憲法66条3項)のです。
つまり、日本国憲法が想定する議院内閣制の下では、行政に対する民主的統制は、国会を通じた間接的なコントロールということになります。
ということは実は、図でいうと、国民と行政との間には「矢印が無い」というのが一番正確だということもできます。
一般的に使われている図では、ここに「世論」という矢印が描かれており、首相官邸の図ではその「世論」が消されていることも一つの批判になっていますが、図内の「世論」以外の矢印は全て、「三権分立」や「民主主義」に実効性をもたすために日本国憲法が用意した諸制度です。
これに対し、「世論」自体は、行政を統制するシステムではありません。
確かに世論自体は重要な要素ではありますが、それをここに図示するのであれば、「世論を行政に反映させる具体的な仕組み」でなければならない(そして、その仕組は日本国憲法では存在しない)わけです。
ここに「世論」という矢印を描いてしまうのは、国民と国会との間の矢印(「選挙」とある部分)に「民意」とか書くようなもので、完全に異質なものです。
そのため、この「世論」というのは、ものによっては、括弧書きにされていたり、矢印が点線とか薄い色とかに変えられていることもあるようです。
ところで、首相官邸HPの図では、内閣から国民に対して「行政」という矢印が引かれています。
ここで「矢印の向きが違う」と批判されているわけですが、「行政」という国家権力の作用をこの図に書き込むのであれば、それはこの向きで正しいわけです。
仮に、ここに「統制」とか「コントロール」とか書かれてたら流石にヤバいわけですが、そうではありません。
だからこの向きに関しては、これはこれでよいのです。
もっとも、上記の説明のとおり、ここに「行政」と書くのも異質といえば異質です。
何故ならここだけ三権分立とか民主主義の話とは違う内容の矢印になっているからです。
何でこんなこと書いたのか…。
ただよく見てください。
この図、そもそも「三権分立」とか「民主主義」の説明ではなく、「現行憲法下の内閣制度」の説明のページに記載されている図なんですよね。
つまり、このページは、「内閣→行政→国民」というこの部分(行政という国家作用を担っているのが内閣ですよ、という話)が中心的話題なわけです。
だから、この矢印は他の矢印と区別して、なんなら、むしろもっと目立つように強調した矢印で「行政」って書いておいても良かったくらいなのです。
中途半端に他の矢印と合わせて(それでいて矢印の方向だけ逆にした)もんだから、わけのわからない印象を与えたわけですね。
ちなみに、Internet Archiveで調べればすぐわかることなのですが、この図は少なくとも20年前から首相官邸で使われていた図です。
「いつの間にか改竄されていた」とか「安倍政権の意図が反映された」とかいうものではありません。
そういう批判は完全に的外れです。
まあ、そういうわけで、結論としては、首相官邸の図を見て、「安倍政権は三権分立を理解していない(破壊するつもりだ)」という批判をすることは、色んな意味で誤っているといえます。
実際に安倍政権が三権分立を理解・尊重しているかどうかは知りません。
その点に批判的意見があるのは構わないと思います。
ただ、少なくともそれは首相官邸HPの図とは全く関係のないことです。
では、今日はこの辺で。
2016年5月9日月曜日
既遂犯と未遂犯
司法書士の岡川です。
基本的なことなのでとっくに書いたと思ってたら書いてなかったので、前回の客観主義(行為主義)から連なる話をこのタイミングでしておきましょう。
主観主義的な考えを徹底した場合、処罰すべきは、犯罪者の危険な性格なのですから、そういう危険な性格があることさえわかれば、実際に許されざる行為や結果が存在しなくてもその人を処罰すべきである(少なくとも処罰を正当化する根拠がある)という結論に至ります。
平たく言えば、「殺人をするような人間」は、実際に人を殺していようがいまいが、「殺人をするような人間」なのだから殺人罪を適用して良いわけです。
しかも実際に殺人事件が起こる前に「犯罪者」を隔離し、予防することができるので、とっても合理的です。
まさしく、SF映画やアニメの世界ですね。
最近の作品では、「PSYCHO-PASS サイコパス」というアニメの設定がそんな感じ。
ただし、日本の刑法では、悪い性格や思想だけで処罰することはなく、何らかの危険な行為があって初めて犯罪が成立します。
これが前回紹介した行為主義の原則です。
また、仮に主観主義に立脚したとしても、現実にはSFの世界と違って「危険な性格」というものを直接的に判定できないので、実際に危険な行為に出たことをその性格の「徴表」であると考えて、そこで初めて処罰すると考えられています。
いずれにせよ、刑法は、処罰の対象として犯罪「行為」を類型的に規定しています。
さらに、刑法に規定されている基本的な犯罪類型は、ある人の行為によって他人の権利や利益の侵害を「実現した場合」が想定されています。
例えば殺人罪なら人を殺した(死に至らしめた)場合であり、窃盗罪なら他人の財産を自分の物にした(自分の支配下に移転させた)場合を処罰するものとして規定されています。
最終的に権利や利益が侵害されるに至った場合、これを「既遂犯」といい、日本の刑法では犯罪は既遂犯が原則的な類型とされているわけです。
これに対して、そういう危険な行為の実行に着手したものの、最終的に刑法に規定された結果の実現まで至らなかった場合を「未遂犯」といいます。
「未遂」というのは、通常の日本語としても使われますね。
未遂犯については、「未遂を罰する場合は、各本条で定める」(刑法44条)と定められており、逆にいうと、個別に「この罪の未遂は罰する」と書かれていない限り、その犯罪類型は既遂犯のみを処罰の対象としているということになります。
まあ、刑法典に規定された大抵の犯罪には未遂罪も規定されているので、例外だといっても大量にあるわけですが、例えば器物損壊なんかには未遂罪がありません。
他人の物を叩き壊そうとして鉄パイプか何かでガンガン殴りつけたけど、その物に傷ひとつつかなかったら不可罰ってことですね。
それから、暴行未遂罪ってのもありませんね(参照→「暴行と傷害の違い」)。
では「過失犯の未遂犯」ってのがありうるか。
故意犯処罰の原則と既遂犯処罰の原則という2つの原則に対する例外を重ねたものになります。
これには争いがあるところですが、少なくとも現行刑法において、過失犯について未遂を処罰をすると規定した条文はありません。
「包丁で遊んでたら手が滑ってうっかり友人の心臓を突き刺しそうになったけど相手にケガひとつなかった」という場合、理論的にはともかく、現行刑法上は「犯罪」ではないということですね。
未遂犯を理解するうえで重要なのは、犯罪の「実行に着手」したという点です。
着手すれば未遂犯の成立の可能性がありますが、着手しなければ、未遂犯としても処罰されません。
これが日常用語との違いで、例えば、銀行強盗の計画を考えて、その段階で「やっぱり人のお金を奪うのは良くない」と気づいて計画を破棄したら、これは未遂ですらありませんので、強盗未遂罪は成立しません。
これは結構重要です。
もし仮に、あなたが悪いことを考えていて、それを何かの機会に咎められたとしましょう。
「あれは未遂だから問題ない」とか言い訳するのは間違いかもしれない。
堂々と「あれは未遂ですらないんだ!」と主張してみましょう。
未遂ですら(刑法では)例外なのに、ましてや、その未遂より前の段階で責められる理由はないのです。
たぶん、相手を刺激して余計に怒られることでしょう。
世の中理不尽ですね。
では、今日はこの辺で。
基本的なことなのでとっくに書いたと思ってたら書いてなかったので、前回の客観主義(行為主義)から連なる話をこのタイミングでしておきましょう。
主観主義的な考えを徹底した場合、処罰すべきは、犯罪者の危険な性格なのですから、そういう危険な性格があることさえわかれば、実際に許されざる行為や結果が存在しなくてもその人を処罰すべきである(少なくとも処罰を正当化する根拠がある)という結論に至ります。
平たく言えば、「殺人をするような人間」は、実際に人を殺していようがいまいが、「殺人をするような人間」なのだから殺人罪を適用して良いわけです。
しかも実際に殺人事件が起こる前に「犯罪者」を隔離し、予防することができるので、とっても合理的です。
まさしく、SF映画やアニメの世界ですね。
最近の作品では、「PSYCHO-PASS サイコパス」というアニメの設定がそんな感じ。
ただし、日本の刑法では、悪い性格や思想だけで処罰することはなく、何らかの危険な行為があって初めて犯罪が成立します。
これが前回紹介した行為主義の原則です。
また、仮に主観主義に立脚したとしても、現実にはSFの世界と違って「危険な性格」というものを直接的に判定できないので、実際に危険な行為に出たことをその性格の「徴表」であると考えて、そこで初めて処罰すると考えられています。
いずれにせよ、刑法は、処罰の対象として犯罪「行為」を類型的に規定しています。
さらに、刑法に規定されている基本的な犯罪類型は、ある人の行為によって他人の権利や利益の侵害を「実現した場合」が想定されています。
例えば殺人罪なら人を殺した(死に至らしめた)場合であり、窃盗罪なら他人の財産を自分の物にした(自分の支配下に移転させた)場合を処罰するものとして規定されています。
最終的に権利や利益が侵害されるに至った場合、これを「既遂犯」といい、日本の刑法では犯罪は既遂犯が原則的な類型とされているわけです。
これに対して、そういう危険な行為の実行に着手したものの、最終的に刑法に規定された結果の実現まで至らなかった場合を「未遂犯」といいます。
「未遂」というのは、通常の日本語としても使われますね。
未遂犯については、「未遂を罰する場合は、各本条で定める」(刑法44条)と定められており、逆にいうと、個別に「この罪の未遂は罰する」と書かれていない限り、その犯罪類型は既遂犯のみを処罰の対象としているということになります。
まあ、刑法典に規定された大抵の犯罪には未遂罪も規定されているので、例外だといっても大量にあるわけですが、例えば器物損壊なんかには未遂罪がありません。
他人の物を叩き壊そうとして鉄パイプか何かでガンガン殴りつけたけど、その物に傷ひとつつかなかったら不可罰ってことですね。
それから、暴行未遂罪ってのもありませんね(参照→「暴行と傷害の違い」)。
では「過失犯の未遂犯」ってのがありうるか。
故意犯処罰の原則と既遂犯処罰の原則という2つの原則に対する例外を重ねたものになります。
これには争いがあるところですが、少なくとも現行刑法において、過失犯について未遂を処罰をすると規定した条文はありません。
「包丁で遊んでたら手が滑ってうっかり友人の心臓を突き刺しそうになったけど相手にケガひとつなかった」という場合、理論的にはともかく、現行刑法上は「犯罪」ではないということですね。
未遂犯を理解するうえで重要なのは、犯罪の「実行に着手」したという点です。
着手すれば未遂犯の成立の可能性がありますが、着手しなければ、未遂犯としても処罰されません。
これが日常用語との違いで、例えば、銀行強盗の計画を考えて、その段階で「やっぱり人のお金を奪うのは良くない」と気づいて計画を破棄したら、これは未遂ですらありませんので、強盗未遂罪は成立しません。
これは結構重要です。
もし仮に、あなたが悪いことを考えていて、それを何かの機会に咎められたとしましょう。
「あれは未遂だから問題ない」とか言い訳するのは間違いかもしれない。
堂々と「あれは未遂ですらないんだ!」と主張してみましょう。
未遂ですら(刑法では)例外なのに、ましてや、その未遂より前の段階で責められる理由はないのです。
たぶん、相手を刺激して余計に怒られることでしょう。
世の中理不尽ですね。
では、今日はこの辺で。
2016年4月28日木曜日
犯罪論における主観主義と客観主義
司法書士の岡川です。
前回の記事に通じるのですが、人の行動を評価する場合に、主観面を重視するのか、客観面を重視するのかによって、その評価が異なってきます。
平たくいうと「悪さばっかりしてるが根はいいヤツ」とか「外面はいいけど性悪なヤツ」とかをどう評価するかという話ですね。
人の行為の評価は、道義的・倫理的な話だけでなく、法的な価値判断でも問題になります。
法的な価値判断で「悪いこと」が「違法」と評価されることになりますが、何をもって「悪いこと」というか。
法的に最も悪いとされる行為は、「犯罪」といわれますね。
いろいろな悪い行為の中でも、特に悪いものとして厳格に禁止されているものは、法律によって、違反者に対するペナルティとして刑罰が用意されています。
刑罰法規(刑法)により、違反に対する刑罰を伴って禁止された違法行為(の類型)を「犯罪」といいます(厳密な定義はひとまず無視します)。
ところで、一般的に「悪いこと」として理解されている犯罪の本質とは何なのか。
犯罪行為が処罰されるのは、本質的には何が悪いからなのか。
ここに、理論的対立が生じます。
例えば、「人を殺すつもりで、人をナイフで刺した」という場合、これを「犯罪」として禁止する理由は何か。
ここで、行為者の主観面を重視すれば、人を殺そうとするその危険な性格が悪いと考えることになります。
そして、人を殺す行為は、その人の悪い性格の表れといえますから、悪い性格が表れたから処罰するのだ、ということになります。
このように、行為者の主観面(悪い性格)を重視する犯罪理論を「主観主義」といいます。
また、違法評価の対象は、これは悪い性格を持った「行為者」だと考えるわけですから、「行為者主義」ともいいます。
主観主義に基づいて法律を作るとすれば、例えば、人を殺すような危険な性格が処罰されるべきなのですから、極論すれば、実際に相手が死んでも死ななくてもその違法評価に変わりはなく、具体的に危険な行為に着手するかどうかも関係ありません。
他方、行為者がどういう性格なのかではなく、行為者が何をしたか、どういう結果が生じたか、という客観面が重要であるという考え方もできます。
どんな危険思想の持主であっても、実際に何らかの危険な行為に出ないかぎり、取締りの対象にすべきではない。
このように、行為の客観面を重視する犯罪理論を客観主義といいます。
客観主義の犯罪理論のもとでは、違法評価の対象は、悪い性格を持った「行為者」ではなく、悪い「行為」なので、行為者主義に対して「行為主義」ともいいます。
ちなみに、ややこしいのですが、「行為主義」は、刑法の基本原則のひとつとして挙げられることがあります。
そこでいう「行為主義」は、犯罪として処罰の対象となるのは人の行為であるという原則です。
行為者主義の対義語としての行為主義とは、少し次元が異なる話になるので、文脈をよく読んで理解しないと混乱するかもしれませんね。
主観主義のもとでも、犯罪の成立には悪い性格の徴表(外部的な表れ)として「行為」を要求するので、その意味での行為主義は、理論の対立を超えた原則であるということができるかもしれません。
・・・まあ、この辺はあまり深く立ち入らないでおきましょう。
さて、実際のところ、何を重視して犯罪の本質が把握されているのでしょうか。
明治時代に成立した現行刑法は、主観主義の影響を強く受けて成立しています。
代表的なところでは、未遂犯であっても必ず刑が減軽されるわけではなく、「減軽することができる」という規定になっているのは、主観主義の影響であるとされます。
(ただし、すべての未遂が犯罪ではないので、その意味では純粋に主観主義であるわけではありません)
戦前から戦後にかけて、日本の犯罪理論では、戦後、主観主義が有力でした。
しかし、主観主義は、処罰範囲を過度に(無制限に)拡大する危険性を伴っています。
そこで、現在の日本の刑法理論の主流は、客観主義となっています。
そのうえで、客観主義の中で、客観面の何を重視するか、という点に議論が移っています。
したがって日本では、どんなに性格が悪くても、実際の行いが良ければ、法的には犯罪扱いされません。
逆に、どんなに「根はいいヤツ」であっても、実際の行いが悪ければ(それが犯罪に該当すれば)、処罰されます。
結論的には、当然っぽいことをいってますけど、ここで、「日本の犯罪理論は行為者主義じゃなくて行為主義だから」とかそんなことを付け加えると、何となく法律知ってる風の話ができます。
では、今日はこの辺で。
前回の記事に通じるのですが、人の行動を評価する場合に、主観面を重視するのか、客観面を重視するのかによって、その評価が異なってきます。
平たくいうと「悪さばっかりしてるが根はいいヤツ」とか「外面はいいけど性悪なヤツ」とかをどう評価するかという話ですね。
人の行為の評価は、道義的・倫理的な話だけでなく、法的な価値判断でも問題になります。
法的な価値判断で「悪いこと」が「違法」と評価されることになりますが、何をもって「悪いこと」というか。
法的に最も悪いとされる行為は、「犯罪」といわれますね。
いろいろな悪い行為の中でも、特に悪いものとして厳格に禁止されているものは、法律によって、違反者に対するペナルティとして刑罰が用意されています。
刑罰法規(刑法)により、違反に対する刑罰を伴って禁止された違法行為(の類型)を「犯罪」といいます(厳密な定義はひとまず無視します)。
ところで、一般的に「悪いこと」として理解されている犯罪の本質とは何なのか。
犯罪行為が処罰されるのは、本質的には何が悪いからなのか。
ここに、理論的対立が生じます。
例えば、「人を殺すつもりで、人をナイフで刺した」という場合、これを「犯罪」として禁止する理由は何か。
ここで、行為者の主観面を重視すれば、人を殺そうとするその危険な性格が悪いと考えることになります。
そして、人を殺す行為は、その人の悪い性格の表れといえますから、悪い性格が表れたから処罰するのだ、ということになります。
このように、行為者の主観面(悪い性格)を重視する犯罪理論を「主観主義」といいます。
また、違法評価の対象は、これは悪い性格を持った「行為者」だと考えるわけですから、「行為者主義」ともいいます。
主観主義に基づいて法律を作るとすれば、例えば、人を殺すような危険な性格が処罰されるべきなのですから、極論すれば、実際に相手が死んでも死ななくてもその違法評価に変わりはなく、具体的に危険な行為に着手するかどうかも関係ありません。
他方、行為者がどういう性格なのかではなく、行為者が何をしたか、どういう結果が生じたか、という客観面が重要であるという考え方もできます。
どんな危険思想の持主であっても、実際に何らかの危険な行為に出ないかぎり、取締りの対象にすべきではない。
このように、行為の客観面を重視する犯罪理論を客観主義といいます。
客観主義の犯罪理論のもとでは、違法評価の対象は、悪い性格を持った「行為者」ではなく、悪い「行為」なので、行為者主義に対して「行為主義」ともいいます。
ちなみに、ややこしいのですが、「行為主義」は、刑法の基本原則のひとつとして挙げられることがあります。
そこでいう「行為主義」は、犯罪として処罰の対象となるのは人の行為であるという原則です。
行為者主義の対義語としての行為主義とは、少し次元が異なる話になるので、文脈をよく読んで理解しないと混乱するかもしれませんね。
主観主義のもとでも、犯罪の成立には悪い性格の徴表(外部的な表れ)として「行為」を要求するので、その意味での行為主義は、理論の対立を超えた原則であるということができるかもしれません。
・・・まあ、この辺はあまり深く立ち入らないでおきましょう。
さて、実際のところ、何を重視して犯罪の本質が把握されているのでしょうか。
明治時代に成立した現行刑法は、主観主義の影響を強く受けて成立しています。
代表的なところでは、未遂犯であっても必ず刑が減軽されるわけではなく、「減軽することができる」という規定になっているのは、主観主義の影響であるとされます。
(ただし、すべての未遂が犯罪ではないので、その意味では純粋に主観主義であるわけではありません)
戦前から戦後にかけて、日本の犯罪理論では、戦後、主観主義が有力でした。
しかし、主観主義は、処罰範囲を過度に(無制限に)拡大する危険性を伴っています。
そこで、現在の日本の刑法理論の主流は、客観主義となっています。
そのうえで、客観主義の中で、客観面の何を重視するか、という点に議論が移っています。
したがって日本では、どんなに性格が悪くても、実際の行いが良ければ、法的には犯罪扱いされません。
逆に、どんなに「根はいいヤツ」であっても、実際の行いが悪ければ(それが犯罪に該当すれば)、処罰されます。
結論的には、当然っぽいことをいってますけど、ここで、「日本の犯罪理論は行為者主義じゃなくて行為主義だから」とかそんなことを付け加えると、何となく法律知ってる風の話ができます。
では、今日はこの辺で。
2015年12月15日火曜日
共同申請の原則
司法書士の岡川です。
「謀殺」がどうとかいう記事で更新が止まっていては、さすがに物騒なので、たまには司法書士らしく登記の話でもしましょうかね。
テーマは不動産登記の基本中の基本である「共同申請の原則」について。
不動産登記のうち、権利に関する登記(所有権の移転や抵当権の設定等)は、「登記権利者」と「登記義務者」の共同申請によることが原則とされています(不動産登記法60条)。
これを、共同申請主義とか共同申請の原則とかいいます。
司法書士にとっては、あまりにも常識すぎる原則なのですが、法律に詳しくない一般の方だけでなく、法律の勉強をして登記について多少知っている人にとっても馴染みの薄いものかと思います。
「登記権利者」というのは、「登記をすることにより、登記上、直接に利益を受ける者」で、登記義務者というのは、「登記をすることにより、登記上、直接に不利益を受ける登記名義人」をいいます。
具体例を挙げると、例えば、売買に基づく移転登記であれば、新しく登記名義人になる「買主」が登記権利者で、逆に、登記名義を失うことになる「売主」が登記義務者です。
つまり、売買に基づく移転登記の申請は、登記権利者である買主と登記義務者である売主が共同してしなければなりません。
「共同申請」といっても、婚姻届みたいに、二人で仲良く法務局に行って窓口に申請書を提出してもいいのですが、普通はそんなことはしません。
登記申請は書面(またはオンライン)で行うので、申請書(申請情報)の作成名義が共同になっていることを意味します。
つまり、共同申請というのは、「登記権利者と登記義務者が両者とも申請書や委任状に押印する」ということです。
売買だけでなく、贈与の場合も考え方は同じですね。
また、抵当権を設定する場合も、登記権利者である抵当権者(金を貸す側)と、登記義務者である抵当権設定者(不動産の所有者等)が共同して申請します。
さて、ここまでは、「契約当事者の両方が揃って登記の申請をしなければならない」ということですので、理解もしやすいでしょうが、登記の原因となるのは、契約だけではありません。
例えば、AとBの共有名義となっている不動産について、Bが共有持分を放棄するような場合です。
共有物の共有者は、いつでも勝手に(一方的に宣言するだけで)自分の持分を放棄することができ、共有者が放棄した場合、他の共有者にその権利が帰属します(民法255条)。
つまり、Bが持分を放棄すると、その不動産はAの単有になるのですが、実はこの場合の持分移転登記の申請も、AとBが共同でしければなりません。
持分放棄は一方的な意思表示なので、AとBの契約でも何でもないのですが、名義を書き換えるには共同でしないといけないのです。
他には、時効によって取得した場合。
他人の不動産を長期間占有していると、一定の要件を満たせば、時効によりその所有権を取得できることがあります。
時効取得は、別に元の所有者から所有権を譲り受けるわけではなく、法律の規定によって所有権を取得することになります(これを「原始的取得」といいます)。
この場合も、時効取得したからといって勝手に自分の名義に書き換えることができるわけではなく、元の名義人と共同して移転登記を申請しなければなりません。
契約のように、当事者間で譲り受けたわけではないにもかかわらず、登記申請は共同してしないといけないのです。
もし登記義務者である現在の名義人が登記申請に協力してくれなければ、訴える(移転登記請求訴訟)しかありません。
つまり、たとえ取得時効の要件を満たしていたとしても、元の所有者に協力してもらうか裁判に勝たなければ、実際に登記名義人になることができないのです。
登記は、自己の権利を公示するためのものなのだから、単純に、「新しい権利者が申請すればええやん」と思う人もいるかもしれません。
しかし、「登記名義を失う人」の利益を保護する(実際に権利を失っていないのに名義を失うことのないようにする)ために、原則的に登記義務者の関与が求められているのです。
よくできていますね。
では、今日はこの辺で。
「謀殺」がどうとかいう記事で更新が止まっていては、さすがに物騒なので、たまには司法書士らしく登記の話でもしましょうかね。
テーマは不動産登記の基本中の基本である「共同申請の原則」について。
不動産登記のうち、権利に関する登記(所有権の移転や抵当権の設定等)は、「登記権利者」と「登記義務者」の共同申請によることが原則とされています(不動産登記法60条)。
これを、共同申請主義とか共同申請の原則とかいいます。
司法書士にとっては、あまりにも常識すぎる原則なのですが、法律に詳しくない一般の方だけでなく、法律の勉強をして登記について多少知っている人にとっても馴染みの薄いものかと思います。
「登記権利者」というのは、「登記をすることにより、登記上、直接に利益を受ける者」で、登記義務者というのは、「登記をすることにより、登記上、直接に不利益を受ける登記名義人」をいいます。
具体例を挙げると、例えば、売買に基づく移転登記であれば、新しく登記名義人になる「買主」が登記権利者で、逆に、登記名義を失うことになる「売主」が登記義務者です。
つまり、売買に基づく移転登記の申請は、登記権利者である買主と登記義務者である売主が共同してしなければなりません。
「共同申請」といっても、婚姻届みたいに、二人で仲良く法務局に行って窓口に申請書を提出してもいいのですが、普通はそんなことはしません。
登記申請は書面(またはオンライン)で行うので、申請書(申請情報)の作成名義が共同になっていることを意味します。
つまり、共同申請というのは、「登記権利者と登記義務者が両者とも申請書や委任状に押印する」ということです。
売買だけでなく、贈与の場合も考え方は同じですね。
また、抵当権を設定する場合も、登記権利者である抵当権者(金を貸す側)と、登記義務者である抵当権設定者(不動産の所有者等)が共同して申請します。
さて、ここまでは、「契約当事者の両方が揃って登記の申請をしなければならない」ということですので、理解もしやすいでしょうが、登記の原因となるのは、契約だけではありません。
例えば、AとBの共有名義となっている不動産について、Bが共有持分を放棄するような場合です。
共有物の共有者は、いつでも勝手に(一方的に宣言するだけで)自分の持分を放棄することができ、共有者が放棄した場合、他の共有者にその権利が帰属します(民法255条)。
つまり、Bが持分を放棄すると、その不動産はAの単有になるのですが、実はこの場合の持分移転登記の申請も、AとBが共同でしければなりません。
持分放棄は一方的な意思表示なので、AとBの契約でも何でもないのですが、名義を書き換えるには共同でしないといけないのです。
他には、時効によって取得した場合。
他人の不動産を長期間占有していると、一定の要件を満たせば、時効によりその所有権を取得できることがあります。
時効取得は、別に元の所有者から所有権を譲り受けるわけではなく、法律の規定によって所有権を取得することになります(これを「原始的取得」といいます)。
この場合も、時効取得したからといって勝手に自分の名義に書き換えることができるわけではなく、元の名義人と共同して移転登記を申請しなければなりません。
契約のように、当事者間で譲り受けたわけではないにもかかわらず、登記申請は共同してしないといけないのです。
もし登記義務者である現在の名義人が登記申請に協力してくれなければ、訴える(移転登記請求訴訟)しかありません。
つまり、たとえ取得時効の要件を満たしていたとしても、元の所有者に協力してもらうか裁判に勝たなければ、実際に登記名義人になることができないのです。
登記は、自己の権利を公示するためのものなのだから、単純に、「新しい権利者が申請すればええやん」と思う人もいるかもしれません。
しかし、「登記名義を失う人」の利益を保護する(実際に権利を失っていないのに名義を失うことのないようにする)ために、原則的に登記義務者の関与が求められているのです。
よくできていますね。
では、今日はこの辺で。
2014年11月5日水曜日
一事不再理の原則
司法書士の岡川です。
舞鶴女子高生殺害事件で無罪が確定して釈放された元被告人が、殺人未遂事件を起こしたようです。
今のところ、正当防衛を主張しているようですが、警察の取り調べを受けることになります。
別件だとは分かっていても、同一人物に関する2件の事件。
前の事件についても気になってくる人も少なくないでしょう。
しかし、それはそれ、これはこれ、冷静に切り分けて考えなければなりません。
ところで、一度無罪が確定した事件で、 新証拠が出てきて「やっぱりあいつが犯人だった」ということが分かった場合はどうなるか。
これが逆の場合、すなわち、有罪判決が確定した後にそれを覆す新証拠が出てきた場合は、「再審請求」をすることで、無罪への道が開かれます(もちろん、かなり厳しいですが)。
それと同じように考えると、例えば検察が再審請求してもう一度審理しなおすこともありそうですが、実はそうではありません。
刑事訴訟法の再審の規定は、「有罪の言渡をした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることができる。」(刑訴435条)のようになっており、無罪の確定判決に対する規定は存在しないのです。
もちろん、同じ人を同じ罪で再び起訴することも許されません。
刑事訴訟法では、有罪無罪にかかわらず、一度確定判決を経た事件に関して、同一事件で再度起訴した場合、「免訴」が言い渡されて手続が打ち切られます(刑訴337条)。
このように、一度裁判が確定した場合に、再び実体審理を行ってはならないという刑事訴訟法の原則を「一事不再理」といいます。
(日本国憲法39条が一事不再理の原則を定めているという見解もあります)
背景には、二回も三回も刑事訴追の負担を与えてはならない(「二重の危険」の禁止)という考えがあると解されています(憲法39条は、二重の危険の禁止を定めていると考えます)。
国民に過度な負担を与えないということは、「真犯人を取り逃がさない」ことよりも重視されるのです。
推定無罪の原則と通じるところがありますね。
では、今日はこの辺で。
舞鶴女子高生殺害事件で無罪が確定して釈放された元被告人が、殺人未遂事件を起こしたようです。
今のところ、正当防衛を主張しているようですが、警察の取り調べを受けることになります。
別件だとは分かっていても、同一人物に関する2件の事件。
前の事件についても気になってくる人も少なくないでしょう。
しかし、それはそれ、これはこれ、冷静に切り分けて考えなければなりません。
ところで、一度無罪が確定した事件で、 新証拠が出てきて「やっぱりあいつが犯人だった」ということが分かった場合はどうなるか。
これが逆の場合、すなわち、有罪判決が確定した後にそれを覆す新証拠が出てきた場合は、「再審請求」をすることで、無罪への道が開かれます(もちろん、かなり厳しいですが)。
それと同じように考えると、例えば検察が再審請求してもう一度審理しなおすこともありそうですが、実はそうではありません。
刑事訴訟法の再審の規定は、「有罪の言渡をした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることができる。」(刑訴435条)のようになっており、無罪の確定判決に対する規定は存在しないのです。
もちろん、同じ人を同じ罪で再び起訴することも許されません。
刑事訴訟法では、有罪無罪にかかわらず、一度確定判決を経た事件に関して、同一事件で再度起訴した場合、「免訴」が言い渡されて手続が打ち切られます(刑訴337条)。
このように、一度裁判が確定した場合に、再び実体審理を行ってはならないという刑事訴訟法の原則を「一事不再理」といいます。
(日本国憲法39条が一事不再理の原則を定めているという見解もあります)
背景には、二回も三回も刑事訴追の負担を与えてはならない(「二重の危険」の禁止)という考えがあると解されています(憲法39条は、二重の危険の禁止を定めていると考えます)。
国民に過度な負担を与えないということは、「真犯人を取り逃がさない」ことよりも重視されるのです。
推定無罪の原則と通じるところがありますね。
では、今日はこの辺で。
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2014年8月28日木曜日
刑法における責任主義
司法書士の岡川です。
近代刑法の基本原則のひとつに「責任主義の原則」というものがあります。
これは、「責任なければ刑罰なし」と表現されるように、行為者に責任を問えない行為は罰することができないという原則です。
ここで「責任」とは何か、というのは非常に難しい問題なので、またの機会に譲るとして、とりあえずは「非難できること」を意味すると理解してください。
そして、行為者を(刑法上)非難できるのは、行為者に故意があるか、少なくとも過失があった場合に限られると考えられています。
すなわち、行為者自身(の意思決定)に対して非難できなければ処罰が正当化されないわけです。
どんなに結果が重大であっても、「結果責任」や「連帯責任」は近代刑法においては許されないということになります。
これは、「故意犯処罰の原則」にも共通することです。
故意犯処罰の例外として過失犯がありますが、無過失犯処罰まで許す例外は存在しないのです。
「少なくとも過失」が必要とされるのには、色々な説明の方法があります。
たとえば、刑法の機能を犯罪予防に求めるとすれば、自分の意思決定の及ばないところの行為によって罰されるというルールがあったとしても、それには何ら犯罪予防の効果が無く、不合理であるということができます。
何らかの人の行為が原因となって重大な権利利益の侵害が生じることは日常茶飯事、その中には、行為者(加害者)自身には、故意も過失もない場合というのも少なくありません。
被害者側からすれば、「その人の行為によって結果が引き起こされた」というだけで非難に値するでしょう。
ところが他方で、加害者側からみれば、「確かに自分の行為によって生じた結果だが、自分にはどうしようもなかった」のであれば、それで非難されるのは納得できないでしょう。
民事上は、過失責任を原則としつつ、無過失責任を一部認めてバランスをとっていますが、刑事上は責任主義が貫かれ、無過失責任は認められていません。
我々は、ともすれば「結果の重大性」に目を向けがちですが、社会の秩序はこういう微妙な利益調整によって成り立っているのです。
そして、それによって自分の身も守られている(すなわち「自分にはどうしようもない事故の責任をとって処罰される」ということがない)ということを考えれば、少しは納得もできるかもしれません。
では、今日はこの辺で。
近代刑法の基本原則のひとつに「責任主義の原則」というものがあります。
これは、「責任なければ刑罰なし」と表現されるように、行為者に責任を問えない行為は罰することができないという原則です。
ここで「責任」とは何か、というのは非常に難しい問題なので、またの機会に譲るとして、とりあえずは「非難できること」を意味すると理解してください。
そして、行為者を(刑法上)非難できるのは、行為者に故意があるか、少なくとも過失があった場合に限られると考えられています。
すなわち、行為者自身(の意思決定)に対して非難できなければ処罰が正当化されないわけです。
どんなに結果が重大であっても、「結果責任」や「連帯責任」は近代刑法においては許されないということになります。
これは、「故意犯処罰の原則」にも共通することです。
故意犯処罰の例外として過失犯がありますが、無過失犯処罰まで許す例外は存在しないのです。
「少なくとも過失」が必要とされるのには、色々な説明の方法があります。
たとえば、刑法の機能を犯罪予防に求めるとすれば、自分の意思決定の及ばないところの行為によって罰されるというルールがあったとしても、それには何ら犯罪予防の効果が無く、不合理であるということができます。
何らかの人の行為が原因となって重大な権利利益の侵害が生じることは日常茶飯事、その中には、行為者(加害者)自身には、故意も過失もない場合というのも少なくありません。
被害者側からすれば、「その人の行為によって結果が引き起こされた」というだけで非難に値するでしょう。
ところが他方で、加害者側からみれば、「確かに自分の行為によって生じた結果だが、自分にはどうしようもなかった」のであれば、それで非難されるのは納得できないでしょう。
民事上は、過失責任を原則としつつ、無過失責任を一部認めてバランスをとっていますが、刑事上は責任主義が貫かれ、無過失責任は認められていません。
我々は、ともすれば「結果の重大性」に目を向けがちですが、社会の秩序はこういう微妙な利益調整によって成り立っているのです。
そして、それによって自分の身も守られている(すなわち「自分にはどうしようもない事故の責任をとって処罰される」ということがない)ということを考えれば、少しは納得もできるかもしれません。
では、今日はこの辺で。
2014年7月25日金曜日
武器対等の原則
司法書士の岡川です。
素手で殴ってきた相手に対し、カッターナイフで応戦した事件で、正当防衛が認められました。
カッターで応戦「正当防衛」 米国人被告に無罪判決
「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」
これが超有名な法律用語のひとつ「正当防衛」の規定です(刑法36条)。
「やむを得ずした」ことが正当防衛成立の要件ですので、何でもかんでも反撃が許されるわけではありません。
一般的に「やむを得ずした」といえるためには、「必要性」と「相当性」が必要であるといわれます。
どの程度であれば「相当性がある」といえるのかを判断する基準として、伝統的に判例が採用している(といわれている)のが「武器対等の原則」です。
「攻撃する側と防衛する側で武器が対等であれば原則として相当性が認められる」というものです。
要するに、ナイフで襲われたときにナイフで応戦するのは相当性があるが、素手で襲われたときにナイフで応戦するのは相当性が無い(過剰防衛)、という考え方です。
実際はそんな単純なものではなく、純粋に武器の種類のみで正当防衛の相当性が決まることはありません(あたりまえですが)。
「そういう結論が導かれやすい」という程度の原則で、武器の種類以外にも様々な要素を考慮した上で相当性が判断されることになります。
一般的には「判例は武器対等の原則を採用している」といわれていますが、武器の種類が対等でなくても正当防衛が成立した事例はいくつもあります。
ちなみに、前から気になっていたんですが、Wikipediaの武器対等の原則の項目に挙げられている参考文献が民事訴訟法の文献なんですけど、これはおそらく、同じ「武器対等の原則」でも、全く別概念の訴訟法上の原則のことを指していると思われます。
こちらの、民事訴訟や刑事訴訟法上の「武器対等の原則」(「当事者対等の原則」「武器平等の原則」ともいいます)とは、対立する当事者双方(民事訴訟なら原告と被告、刑事訴訟なら検察官と被告人)に主張を述べる機会を平等に与えなければならないという原則です。
刑法上の「武器対等の原則」とは、全然意味が違いますね。
Wikipediaの記述がいつ修正されるかな~と思って放置してるんですけど、結構長いこと修正されませんね。
というわけで、Wikipediaをコピペしてレポートを書こうとしている学生の皆さんは、こういうトラップに引っかからないように気をつけましょう。
ま、これがトラップだと気づく賢明な学生さんはWikipediaのコピペなんかしないでしょうが。
では、今日はこの辺で。
素手で殴ってきた相手に対し、カッターナイフで応戦した事件で、正当防衛が認められました。
カッターで応戦「正当防衛」 米国人被告に無罪判決
大津市内の英会話学校で昨年9月、50代の米国人経営者=傷害罪などで公判中=に暴力をふるわれた際、護身用のカッターナイフで応戦してけがを負わせたとして、傷害罪に問われた英会話講師の米国人男性被告(31)=京都市下京区=の判決が24日、大津地裁であった。赤坂宏一裁判官は、正当防衛を認めて無罪(求刑懲役1年)を言い渡した。
「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」
これが超有名な法律用語のひとつ「正当防衛」の規定です(刑法36条)。
「やむを得ずした」ことが正当防衛成立の要件ですので、何でもかんでも反撃が許されるわけではありません。
一般的に「やむを得ずした」といえるためには、「必要性」と「相当性」が必要であるといわれます。
どの程度であれば「相当性がある」といえるのかを判断する基準として、伝統的に判例が採用している(といわれている)のが「武器対等の原則」です。
「攻撃する側と防衛する側で武器が対等であれば原則として相当性が認められる」というものです。
要するに、ナイフで襲われたときにナイフで応戦するのは相当性があるが、素手で襲われたときにナイフで応戦するのは相当性が無い(過剰防衛)、という考え方です。
実際はそんな単純なものではなく、純粋に武器の種類のみで正当防衛の相当性が決まることはありません(あたりまえですが)。
「そういう結論が導かれやすい」という程度の原則で、武器の種類以外にも様々な要素を考慮した上で相当性が判断されることになります。
一般的には「判例は武器対等の原則を採用している」といわれていますが、武器の種類が対等でなくても正当防衛が成立した事例はいくつもあります。
ちなみに、前から気になっていたんですが、Wikipediaの武器対等の原則の項目に挙げられている参考文献が民事訴訟法の文献なんですけど、これはおそらく、同じ「武器対等の原則」でも、全く別概念の訴訟法上の原則のことを指していると思われます。
こちらの、民事訴訟や刑事訴訟法上の「武器対等の原則」(「当事者対等の原則」「武器平等の原則」ともいいます)とは、対立する当事者双方(民事訴訟なら原告と被告、刑事訴訟なら検察官と被告人)に主張を述べる機会を平等に与えなければならないという原則です。
刑法上の「武器対等の原則」とは、全然意味が違いますね。
Wikipediaの記述がいつ修正されるかな~と思って放置してるんですけど、結構長いこと修正されませんね。
というわけで、Wikipediaをコピペしてレポートを書こうとしている学生の皆さんは、こういうトラップに引っかからないように気をつけましょう。
ま、これがトラップだと気づく賢明な学生さんはWikipediaのコピペなんかしないでしょうが。
では、今日はこの辺で。
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2014年6月10日火曜日
ノーワーク・ノーペイの原則
司法書士の岡川です。
当たり前といえば当たり前なのですが、賃金(給料)というのは、働かなければもらえません。
会社に雇われている人が、何らかの事情(病気や怪我等)で出勤できなかったり、無断で仕事をサボったりして、労働しなかった場合、その分の賃金は発生しません。
これを、「ノーワーク・ノーペイの原則」といいます(pay=賃金)。
「働かざる者食うべからず」をちょっと今風にカタカナ語でいってみた感じですね。
自分自身が原因で働いていない場合(自ら休暇をとった場合、遅刻、サボり等)に対価である賃金をもらえないのは当然ですが、必ずしも自分のせいでない事情によって働けない場合についても(例えば、電車が止まって職場に行けなかった場合や、休みの日に交通事故にあって入院した場合など)、この原則は妥当します。
その実定法上の根拠としては、民法第536条1項の「危険負担」の規定です。
危険負担とは、債務が履行されない場合に、その不利益を債権者と債務者のどちらに負担させるかという問題なのですが、民法536条は、「当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは、債務者は、反対給付を受ける権利を有しない。」という原則を規定しています。
労働債務の債務者が労働者で、反対給付とは、その労働の対価である賃金になりますね。
つまり、不可抗力によって労働できない場合なども、賃金をもらえないということです。
他方、働けない原因が会社側にある場合は、働かなくてもお金をもらえます(民法第536条2項の反対給付請求権や、労働基準法26条の休業手当規定)。
いくらもらえるかは、事情によります(民法が適用される場合か、労働基準法が適用される場合かによっても異なる)。
それから、年次有給休暇というのは、ノーワーク・ノーペイの例外です。
有給休暇を使って休んでいる分に関しては、休んでいてもお金をもらえます。
これは労働者の権利として保護されています。
なお、労働契約で、「働かなくても一定額の給料をあげる」という契約をすることは別に構いません。
では、今日はこの辺で。
当たり前といえば当たり前なのですが、賃金(給料)というのは、働かなければもらえません。
会社に雇われている人が、何らかの事情(病気や怪我等)で出勤できなかったり、無断で仕事をサボったりして、労働しなかった場合、その分の賃金は発生しません。
これを、「ノーワーク・ノーペイの原則」といいます(pay=賃金)。
「働かざる者食うべからず」をちょっと今風にカタカナ語でいってみた感じですね。
自分自身が原因で働いていない場合(自ら休暇をとった場合、遅刻、サボり等)に対価である賃金をもらえないのは当然ですが、必ずしも自分のせいでない事情によって働けない場合についても(例えば、電車が止まって職場に行けなかった場合や、休みの日に交通事故にあって入院した場合など)、この原則は妥当します。
その実定法上の根拠としては、民法第536条1項の「危険負担」の規定です。
危険負担とは、債務が履行されない場合に、その不利益を債権者と債務者のどちらに負担させるかという問題なのですが、民法536条は、「当事者双方の責めに帰することができない事由によって債務を履行することができなくなったときは、債務者は、反対給付を受ける権利を有しない。」という原則を規定しています。
労働債務の債務者が労働者で、反対給付とは、その労働の対価である賃金になりますね。
つまり、不可抗力によって労働できない場合なども、賃金をもらえないということです。
他方、働けない原因が会社側にある場合は、働かなくてもお金をもらえます(民法第536条2項の反対給付請求権や、労働基準法26条の休業手当規定)。
いくらもらえるかは、事情によります(民法が適用される場合か、労働基準法が適用される場合かによっても異なる)。
それから、年次有給休暇というのは、ノーワーク・ノーペイの例外です。
有給休暇を使って休んでいる分に関しては、休んでいてもお金をもらえます。
これは労働者の権利として保護されています。
なお、労働契約で、「働かなくても一定額の給料をあげる」という契約をすることは別に構いません。
では、今日はこの辺で。
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2014年5月9日金曜日
上位法と下位法
司法書士の岡川です。
前回は、様々な法形式を紹介しました。
これに関連して、重要な原理をあわせて紹介しておきましょう。
異なる形式の法令の中には、上位の法規範(上位法)と下位の法規範(下位法)があり、法秩序は、それらの法規範が憲法を頂点とした階層構造をしています。
すなわち、「憲法」が頂点にあり、その下に「法律」があり、さらにその下に「命令」がある、という具合です。
憲法と法律では憲法が上位法で法律が下位法、法律と命令では法律が上位法で命令が下位法になります。
そして、下位法は、上位法を根拠としてのみ効力を有するとされています(法段階説)。
つまり、異なる形式の法令相互に矛盾がある場合、上位法が下位法に優先することになります。
これを、「形式的効力の原理」といい、「上位法は下位法を破る」というふうに表現されます。
何らかの法律が日本国憲法に違反すると、その法律が無効となるのは、上位法である日本国憲法が下位法である法律に優先するからです。
では、それぞれの法形式の上下関係はどうなっているのか、個別にみていきましょう。
国内法の中で、「憲法」が最上位であることは、異論ありません。
そしてその次に「法律」がきます。
「法律」の下には「命令」がありますが、命令にも色々あります。
命令の中の優先順位では、政令が上位で、府省令がその一段下にあります。
また、外局の規則や庁令に対しては、上位機関の府省令が優先するとされます。
法律と最高裁判所規則では、一般的には法律が上位だと考えられています。
議院規則と法律との関係は、特に国会法との間の優劣が問題となります。
議院規則が優先するという説も有力ですが、一般的には法律が優先すると考えられています。
最高裁判所規則と議院規則では、そもそも所管事項が異なるので(それぞれが、司法機関・立法機関の内部を規律する法なので)、どっちが上位か下位かという問題にはならないと思われます。
その意味では、「同等」ということになるのでしょうか(政令と同等?)。
条例は、国の行政機関が定める命令(政令や府省令など)より下位になります。
地方公共団体の規則は、さらにその下位です。
まとめると、
憲法>法律>政令>省令>庁令>条例>地方公共団体の規則
という具合になります(裁判所・議院規則は別系統ということで省略)。
上位法と下位法の優先順位は、特別法と一般法の優先順位と同じく、基本的なルールですので、覚えておきましょう。
では、今日はこの辺で。
前回は、様々な法形式を紹介しました。
これに関連して、重要な原理をあわせて紹介しておきましょう。
異なる形式の法令の中には、上位の法規範(上位法)と下位の法規範(下位法)があり、法秩序は、それらの法規範が憲法を頂点とした階層構造をしています。
すなわち、「憲法」が頂点にあり、その下に「法律」があり、さらにその下に「命令」がある、という具合です。
憲法と法律では憲法が上位法で法律が下位法、法律と命令では法律が上位法で命令が下位法になります。
そして、下位法は、上位法を根拠としてのみ効力を有するとされています(法段階説)。
つまり、異なる形式の法令相互に矛盾がある場合、上位法が下位法に優先することになります。
これを、「形式的効力の原理」といい、「上位法は下位法を破る」というふうに表現されます。
何らかの法律が日本国憲法に違反すると、その法律が無効となるのは、上位法である日本国憲法が下位法である法律に優先するからです。
では、それぞれの法形式の上下関係はどうなっているのか、個別にみていきましょう。
国内法の中で、「憲法」が最上位であることは、異論ありません。
そしてその次に「法律」がきます。
「法律」の下には「命令」がありますが、命令にも色々あります。
命令の中の優先順位では、政令が上位で、府省令がその一段下にあります。
また、外局の規則や庁令に対しては、上位機関の府省令が優先するとされます。
法律と最高裁判所規則では、一般的には法律が上位だと考えられています。
議院規則と法律との関係は、特に国会法との間の優劣が問題となります。
議院規則が優先するという説も有力ですが、一般的には法律が優先すると考えられています。
最高裁判所規則と議院規則では、そもそも所管事項が異なるので(それぞれが、司法機関・立法機関の内部を規律する法なので)、どっちが上位か下位かという問題にはならないと思われます。
その意味では、「同等」ということになるのでしょうか(政令と同等?)。
条例は、国の行政機関が定める命令(政令や府省令など)より下位になります。
地方公共団体の規則は、さらにその下位です。
まとめると、
憲法>法律>政令>省令>庁令>条例>地方公共団体の規則
という具合になります(裁判所・議院規則は別系統ということで省略)。
上位法と下位法の優先順位は、特別法と一般法の優先順位と同じく、基本的なルールですので、覚えておきましょう。
では、今日はこの辺で。
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2014年4月17日木曜日
自力救済禁止の原則
司法書士の岡川です。
自らの権利の実現(回復)のために、法的な手続きを経ず、実力行使(「私力の行使」とも)を行うことを「自力救済」といいます。
例えば、賃貸住宅の借主が家賃を滞納しているときに、家主が実力をもって物件を明け渡させるような場合です。
具体的には、借主の留守中に家に入って中の荷物を全部外に出し、鍵も付け替えてしまうような方法です。
近代法秩序の下では、権利の実現は、法的(主に司法)手続を通じて行うことが要請されており、個人が勝手に強制的な権利実現を図ることは禁じられています。
これを「自力救済禁止の原則」といいます。
もちろん任意の和解交渉によって、双方合意の下で権利を実現することは何の問題もありません。
上記の例でいえば、和解契約に基づいて、借主に退去してもらうというのは自由です。
問題は、強制的に相手を賃貸住宅から退去させたいときで、この場合は、「建物明渡請求訴訟」を提起したり、民事調停を申し立てるなど、裁判所の手続きを経たうえで、判決書や調停調書などの「裁判所のお墨付き」に基づいて強制執行を行わなければなりません(色々方法はありますが、代表的でわかり易いのが訴訟ですね)。
いちいち法的手続きを経なければいけないというのは、面倒な面もありますが、それは、我々が無秩序な社会ではなく近代の法治国家で生きているからです。
皆が法に基づいて行動することが要請され、法的手続を経ない実力行使が禁止されることで、自分たちの身も守られているわけです。
したがって、面倒だからといって司法手続を飛ばして実力行使に出れば、権利行使した側が逆に違法となります。
上記のような実力を持って借主を退去させる、いわゆる「追い出し行為」は、不法行為として損害賠償の対象となります。
「家賃滞納」で訴える権利を持っている側が逆に不法行為で訴えられるわけです。
そうなったら、家主は賠償責任を負って損をするし、借主は不法行為の被害で損をする。
誰も得をしませんね。
さて、例によって「原則には例外がある」もので、自力救済が例外的に認められる場合もあります。
すなわち、「法律に定める手続によったのでは、権利に対する違法な侵害に対抗して現状を維持することが不可能又は著しく困難であると認められる緊急やむを得ない特別の事情が存する場合においてのみ、その必要の限度を超えない範囲内で、例外的に許される」というのが判例です(最判昭和40年12月07日民集19巻9号2101頁)。
ま、この判例は、自力救済を認めなかった判例なんですけどね。
要するに、法的手段では権利の実現ができない場合、現状維持のために緊急的に行う最低限の実力行使は認められることもあるよ、ということです。
例えば、今まさにあなたの自転車が盗まれようとしている場面に出くわした場合、それをみすみす見過ごして、きちんと動産引渡請求訴訟を提起しろ、というのはあまりにも酷なわけですね。
逃げられたら、もうどこの誰を訴えればいいのかも分からなくなります。
そのような場合は、自力救済(その場で奪い返す)でも認めなければ、権利者を保護できません。
そのような例外的な場合を除けば、基本的に自力救済は違法です。
法的手続は色々ありますので、くれぐれも実力行使だけはやめましょう。
では、今日はこの辺で。
(追伸)
とかいう記事を書いてたら、ちょうど追い出し屋の裁判が・・・。
何このタイミング。
こういう事態になっちゃうんで、いくら家賃滞納で困っても自力救済はやめましょうね、ほんと。
→家賃滞納したら家財撤去され 「追い出し」違法と提訴
(追伸の追伸)
よく読むとこの事件、保証会社の事案ですね。
保証会社は賃貸借契約の当事者(賃貸人)ではないため、自力救済ですらない単なる不法行為と認定されます。
自らの権利の実現(回復)のために、法的な手続きを経ず、実力行使(「私力の行使」とも)を行うことを「自力救済」といいます。
例えば、賃貸住宅の借主が家賃を滞納しているときに、家主が実力をもって物件を明け渡させるような場合です。
具体的には、借主の留守中に家に入って中の荷物を全部外に出し、鍵も付け替えてしまうような方法です。
近代法秩序の下では、権利の実現は、法的(主に司法)手続を通じて行うことが要請されており、個人が勝手に強制的な権利実現を図ることは禁じられています。
これを「自力救済禁止の原則」といいます。
もちろん任意の和解交渉によって、双方合意の下で権利を実現することは何の問題もありません。
上記の例でいえば、和解契約に基づいて、借主に退去してもらうというのは自由です。
問題は、強制的に相手を賃貸住宅から退去させたいときで、この場合は、「建物明渡請求訴訟」を提起したり、民事調停を申し立てるなど、裁判所の手続きを経たうえで、判決書や調停調書などの「裁判所のお墨付き」に基づいて強制執行を行わなければなりません(色々方法はありますが、代表的でわかり易いのが訴訟ですね)。
いちいち法的手続きを経なければいけないというのは、面倒な面もありますが、それは、我々が無秩序な社会ではなく近代の法治国家で生きているからです。
皆が法に基づいて行動することが要請され、法的手続を経ない実力行使が禁止されることで、自分たちの身も守られているわけです。
したがって、面倒だからといって司法手続を飛ばして実力行使に出れば、権利行使した側が逆に違法となります。
上記のような実力を持って借主を退去させる、いわゆる「追い出し行為」は、不法行為として損害賠償の対象となります。
「家賃滞納」で訴える権利を持っている側が逆に不法行為で訴えられるわけです。
そうなったら、家主は賠償責任を負って損をするし、借主は不法行為の被害で損をする。
誰も得をしませんね。
さて、例によって「原則には例外がある」もので、自力救済が例外的に認められる場合もあります。
すなわち、「法律に定める手続によったのでは、権利に対する違法な侵害に対抗して現状を維持することが不可能又は著しく困難であると認められる緊急やむを得ない特別の事情が存する場合においてのみ、その必要の限度を超えない範囲内で、例外的に許される」というのが判例です(最判昭和40年12月07日民集19巻9号2101頁)。
ま、この判例は、自力救済を認めなかった判例なんですけどね。
要するに、法的手段では権利の実現ができない場合、現状維持のために緊急的に行う最低限の実力行使は認められることもあるよ、ということです。
例えば、今まさにあなたの自転車が盗まれようとしている場面に出くわした場合、それをみすみす見過ごして、きちんと動産引渡請求訴訟を提起しろ、というのはあまりにも酷なわけですね。
逃げられたら、もうどこの誰を訴えればいいのかも分からなくなります。
そのような場合は、自力救済(その場で奪い返す)でも認めなければ、権利者を保護できません。
そのような例外的な場合を除けば、基本的に自力救済は違法です。
法的手続は色々ありますので、くれぐれも実力行使だけはやめましょう。
では、今日はこの辺で。
(追伸)
とかいう記事を書いてたら、ちょうど追い出し屋の裁判が・・・。
何このタイミング。
こういう事態になっちゃうんで、いくら家賃滞納で困っても自力救済はやめましょうね、ほんと。
→家賃滞納したら家財撤去され 「追い出し」違法と提訴
(追伸の追伸)
よく読むとこの事件、保証会社の事案ですね。
保証会社は賃貸借契約の当事者(賃貸人)ではないため、自力救済ですらない単なる不法行為と認定されます。
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2014年4月7日月曜日
一物一権主義
司法書士の岡川です。
物を直接支配する権利を「物権」といいますが、物権に関して、「一物一権主義」という原則があります。
原則なので例外も多々ありますが、それはともかく、そういう原則があります。
この一物一権主義とは何か、というと、これがまた複数の意味で使われる用語でして、初学者を混乱させるものです。
まず、「同一物に対しては、同一内容のの物権はひとつしか成立しない」という意味で使われます。
これは、物権の排他性を表します。
例えば、あなたが土地を持っているとすれば、その土地の所有権はあなたに帰属します。
このとき、その土地には、あなたの所有権の他に別の所有権が同時に成立することはありません。
つまり、「あなたの所有物でありながら、かつ、他の人の所有物でもある」という状況にはならないということです。
そうなると権利関係が複雑になってしまうからです(「共有」については、いろんな説明の仕方がありますが、とりあえず、一物一権主義の例外だと考えておけばよいでしょう)。
次に、「ひとつの物権の客体は、ひとつの独立した物である」という意味でも使われます。
これは、物権の単一性や独立性を表します。
つまり、原則として「リンゴ5個に対する所有権」とか「車の後部座席の所有権」という物権は成立しないことになります。
リンゴ1個1個に所有権が生じますし、車の所有権は車の全体に及ぶのです。
ただし、この原則はかなり緩やかなものです。
例えば、「倉庫内のリンゴ一切」を一括して担保に入れたい場合、全体に「譲渡担保権」という担保物権を設定する方法が認められています(これを集合物譲渡担保とか流動動産譲渡担保といいいます)。
また、土地の一部を譲渡する(その一部だけ所有権を移転する)ということも可能です。
もっとも、土地の一部を譲渡しても、それを登記することはできないので、その部分の名義を自分のものにしようと思えば一筆の土地を、複数の土地に分ける(分筆する)必要があります。
一物一権主義は、民法の基礎的な知識なので、法律を勉強する人は知っておくべき概念です。
とはいえ、そんなに難しい概念じゃないので、「色んな意味がある」「厳格に貫かれる原則ではない」ということさえ頭に入れておけば、何となく理解できるでしょう。
そして、何となく理解しておけばそれで足ります。
では、今日はこの辺で。
物を直接支配する権利を「物権」といいますが、物権に関して、「一物一権主義」という原則があります。
原則なので例外も多々ありますが、それはともかく、そういう原則があります。
この一物一権主義とは何か、というと、これがまた複数の意味で使われる用語でして、初学者を混乱させるものです。
まず、「同一物に対しては、同一内容のの物権はひとつしか成立しない」という意味で使われます。
これは、物権の排他性を表します。
例えば、あなたが土地を持っているとすれば、その土地の所有権はあなたに帰属します。
このとき、その土地には、あなたの所有権の他に別の所有権が同時に成立することはありません。
つまり、「あなたの所有物でありながら、かつ、他の人の所有物でもある」という状況にはならないということです。
そうなると権利関係が複雑になってしまうからです(「共有」については、いろんな説明の仕方がありますが、とりあえず、一物一権主義の例外だと考えておけばよいでしょう)。
次に、「ひとつの物権の客体は、ひとつの独立した物である」という意味でも使われます。
これは、物権の単一性や独立性を表します。
つまり、原則として「リンゴ5個に対する所有権」とか「車の後部座席の所有権」という物権は成立しないことになります。
リンゴ1個1個に所有権が生じますし、車の所有権は車の全体に及ぶのです。
ただし、この原則はかなり緩やかなものです。
例えば、「倉庫内のリンゴ一切」を一括して担保に入れたい場合、全体に「譲渡担保権」という担保物権を設定する方法が認められています(これを集合物譲渡担保とか流動動産譲渡担保といいいます)。
また、土地の一部を譲渡する(その一部だけ所有権を移転する)ということも可能です。
もっとも、土地の一部を譲渡しても、それを登記することはできないので、その部分の名義を自分のものにしようと思えば一筆の土地を、複数の土地に分ける(分筆する)必要があります。
一物一権主義は、民法の基礎的な知識なので、法律を勉強する人は知っておくべき概念です。
とはいえ、そんなに難しい概念じゃないので、「色んな意味がある」「厳格に貫かれる原則ではない」ということさえ頭に入れておけば、何となく理解できるでしょう。
そして、何となく理解しておけばそれで足ります。
では、今日はこの辺で。
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2014年1月28日火曜日
後法優先の原則
司法書士の岡川です。
今日は、当たり前すぎて問題になることも少ない原則を紹介します。
例えば、「Aは○○することができる」という法律と、「Aは○○することができない」という、相互に矛盾した法律があるとします。
どちらも有効に成立した日本の法律であれば、実際の事案でどちらを適用するかというルールがなければ、混乱が生じてしまいます。
そこで、「後に成立した法律が優先」というルール(「後法は前法を破る」)があります。
後からできた法律は、既に存在する規定を前提に作られたものであるから、既にある法律を修正する趣旨を含むと考えるのが自然だからです。
これを、「後法優先の原則」といいます。
もし「Aは○○することができない」という法律が「Aは○○することができる」という法律より後に成立したものであったとすれば、「Aは○○することができる」という法律が存在するにもかかわらず、Aは○○してはいけない、ということになります。
ただし、この後法優先の原則は、特別法優先の原則が妥当する場面では、適用されません。
つまり、前法が後法の特別法になっているような場合は、一般法である後法より、特別法である前法の方が優先することになります。
何が特別法で何が一般法になるかは明示的に定められているわけではないので、実際に相互に矛盾するような規定が存在した場合、どちらの規定が適用されるのか(つまり、後法優先なのか、それとも特別法たる前法優先なのか)を解釈しなければなりません。
ところで、後法優先の原則のわかり易い例は無いか、ググってみたんですけど、「国家公務員法より地方公務員法が後法なので、地方公務員法が適用される」みたいな説明がありました。
しかし、そもそも両者は適用対象が違うので、前法後法の問題じゃないとおもうんですけど、国家公務員法に地方公務員にも適用される規定があるということでしょうかね?
ちょっとよくわかりません。
ま、調べるのも大変なのでスルーしましょう。
では、今日はこの辺で。
今日は、当たり前すぎて問題になることも少ない原則を紹介します。
例えば、「Aは○○することができる」という法律と、「Aは○○することができない」という、相互に矛盾した法律があるとします。
どちらも有効に成立した日本の法律であれば、実際の事案でどちらを適用するかというルールがなければ、混乱が生じてしまいます。
そこで、「後に成立した法律が優先」というルール(「後法は前法を破る」)があります。
後からできた法律は、既に存在する規定を前提に作られたものであるから、既にある法律を修正する趣旨を含むと考えるのが自然だからです。
これを、「後法優先の原則」といいます。
もし「Aは○○することができない」という法律が「Aは○○することができる」という法律より後に成立したものであったとすれば、「Aは○○することができる」という法律が存在するにもかかわらず、Aは○○してはいけない、ということになります。
ただし、この後法優先の原則は、特別法優先の原則が妥当する場面では、適用されません。
つまり、前法が後法の特別法になっているような場合は、一般法である後法より、特別法である前法の方が優先することになります。
何が特別法で何が一般法になるかは明示的に定められているわけではないので、実際に相互に矛盾するような規定が存在した場合、どちらの規定が適用されるのか(つまり、後法優先なのか、それとも特別法たる前法優先なのか)を解釈しなければなりません。
ところで、後法優先の原則のわかり易い例は無いか、ググってみたんですけど、「国家公務員法より地方公務員法が後法なので、地方公務員法が適用される」みたいな説明がありました。
しかし、そもそも両者は適用対象が違うので、前法後法の問題じゃないとおもうんですけど、国家公務員法に地方公務員にも適用される規定があるということでしょうかね?
ちょっとよくわかりません。
ま、調べるのも大変なのでスルーしましょう。
では、今日はこの辺で。
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2014年1月8日水曜日
罪刑法定主義の派生原理その5「明確性の原則」
司法書士の岡川です。
罪刑法定主義シリーズが、の代表的な(伝統的な)4つの派生原理を紹介したところで終わっていたのですが、前回の記事で触れた明確性の原則も紹介しておきましょう。
「明確性の原則」とは、文字通り「刑法(刑罰法規)の内容は、具体的かつ明確に規定されなければならない」という原則です。
罪刑法定主義は、何が犯罪で何が犯罪でないかをあらかじめ国民に提示しておくことで、国民の自由を保障する(国家による不意打ち的な処罰を避ける)機能を有していました。
とするならば、たとえ法律に犯罪行為が規定されていても、それがあまりにも漠然としていたら意味がありません。
そこで、犯罪構成要件が曖昧・不明確である場合は、憲法31条に違反して無効とされます。
最高裁判所は、違憲無効となるかどうかは、「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読み取れるかどうか」によって判断するものとしています。
まあ、当然といえば当然の原則ですね。
ただし、実際には、犯罪行為の対象をかなり包括的に規定している法律は少なくありません。
それらも、なんやかんやで違憲無効とはされていません。
有名どころで、いわゆる「淫行条例」における「淫行」という要件が不明確かどうかが争われた事案で、「淫行」という規定も不明確ではないとされています。
「淫行」は「淫行」でわかるやろ、常識的に考えて・・・という話ですね(ただし、最高裁で反対意見が付されています)。
ただ、違憲無効とされないから良いってものでもなくて、そもそも国民の自由を不当に制限しないための原則なので、たとえ憲法31条の問題はクリアしていたとしても、できる限り具体的・明確に規定してもらいたいものです。
立法府のみなさん、そこんとこよろしくお願いします。
では、今日はこの辺で。
罪刑法定主義シリーズ
1.罪刑法定主義
2.罪刑法定主義の派生原理その1「法律主義」
3.罪刑法定主義の派生原理その2「遡及処罰の禁止」
4.罪刑法定主義の派生原理その3「類推解釈の禁止」
5.罪刑法定主義の派生原理その4「絶対的不確定刑の禁止」
6.罪刑法定主義の派生原理その5「明確性の原則」 ← いまここ
罪刑法定主義シリーズが、の代表的な(伝統的な)4つの派生原理を紹介したところで終わっていたのですが、前回の記事で触れた明確性の原則も紹介しておきましょう。
「明確性の原則」とは、文字通り「刑法(刑罰法規)の内容は、具体的かつ明確に規定されなければならない」という原則です。
罪刑法定主義は、何が犯罪で何が犯罪でないかをあらかじめ国民に提示しておくことで、国民の自由を保障する(国家による不意打ち的な処罰を避ける)機能を有していました。
とするならば、たとえ法律に犯罪行為が規定されていても、それがあまりにも漠然としていたら意味がありません。
そこで、犯罪構成要件が曖昧・不明確である場合は、憲法31条に違反して無効とされます。
最高裁判所は、違憲無効となるかどうかは、「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読み取れるかどうか」によって判断するものとしています。
まあ、当然といえば当然の原則ですね。
ただし、実際には、犯罪行為の対象をかなり包括的に規定している法律は少なくありません。
それらも、なんやかんやで違憲無効とはされていません。
有名どころで、いわゆる「淫行条例」における「淫行」という要件が不明確かどうかが争われた事案で、「淫行」という規定も不明確ではないとされています。
「淫行」は「淫行」でわかるやろ、常識的に考えて・・・という話ですね(ただし、最高裁で反対意見が付されています)。
ただ、違憲無効とされないから良いってものでもなくて、そもそも国民の自由を不当に制限しないための原則なので、たとえ憲法31条の問題はクリアしていたとしても、できる限り具体的・明確に規定してもらいたいものです。
立法府のみなさん、そこんとこよろしくお願いします。
では、今日はこの辺で。
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罪刑法定主義シリーズ
1.罪刑法定主義
2.罪刑法定主義の派生原理その1「法律主義」
3.罪刑法定主義の派生原理その2「遡及処罰の禁止」
4.罪刑法定主義の派生原理その3「類推解釈の禁止」
5.罪刑法定主義の派生原理その4「絶対的不確定刑の禁止」
6.罪刑法定主義の派生原理その5「明確性の原則」 ← いまここ
2013年12月16日月曜日
初日不算入の原則
司法書士の岡川です。
細かいことですが、重要な原則として、「初日不算入の原則」というものがあります。
法律の世界は、「期間」というものがしばしば重大な意味を持ちます。
例えば、控訴期間を1日でも過ぎれば控訴できないし、時効完成まであと1日であっても、時効中断事由が発生すればその時点で時効完成が妨げられます(→参照「時効の完成に気を付けよう」)。
「何日」とか「何年」とかいう期間が定められていた場合、1日でもずれると結論が変わってきますので、「いつからいつまでか」を、きちんと厳密に確定する必要があります。
弁済期を1日でも過ぎれば遅延損害金が発生しますが、例えば「1か月後」と決めた場合、いつから遅延損害金が発生するかは、1日単位で細かく期間を計算しなければなりません。
そんなわけで、厳密な期間計算のためには、ルールが必要です。
そのルールのひとつが、「初日不算入の原則」です。
読んで字のごとく、期間計算に「初日は参入しない」という決まりです。
民法140条には、「日、週、月又は年によって期間を定めたときは、期間の初日は、算入しない。ただし、その期間が午前零時から始まるときは、この限りでない。」と規定されており、これが基本的な期間計算のルールとなっています。
改めて確認するまでもないですが、1週間は7日間のことをいいます。
では、「1週間」という期間を設定したとき、「いつから7日間か」ということは、ハッキリさせておかなければなりません。
例えば、民事訴訟において控訴ができる期間は、「判決書の送達を受けた日から2週間」です。
平成25年12月3日の昼3時ごろに、判決書の送達を受けた(郵便屋さんから受け取った)としましょう。
ここで、「送達を受けた12月3日から2週間(14日間)だから、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16日まで」と数えて、16日が経過したらもう控訴ができない!と考えてはいけません。
初日不算入の原則がありますので、3日は除いて、「4、5、6、・・・(略)・・・15、16、17日」と14日数え、17日までは控訴することができます。
まあ、わかり易くいうと、週単位で決めた場合、初日と同じ曜日の日が終期になります。
月単位でも同じですね。
「12月3日から1か月」と決めたら、終期は1月2日ではなく、1月3日になります(カレンダーで数えてみてください)。
ただし、午前0時ちょうどから始まる場合は、初日も算入します。
「平成25年1月1日午前0時から1年間」という期間は、平成25年12月31日で終わりです。
原則に例外はつきもので、この初日不算入の原則にも個別にはいくつか例外がありますので気を付けましょう(例えば、年齢の計算は初日算入です)。
では、今日はこの辺で。
細かいことですが、重要な原則として、「初日不算入の原則」というものがあります。
法律の世界は、「期間」というものがしばしば重大な意味を持ちます。
例えば、控訴期間を1日でも過ぎれば控訴できないし、時効完成まであと1日であっても、時効中断事由が発生すればその時点で時効完成が妨げられます(→参照「時効の完成に気を付けよう」)。
「何日」とか「何年」とかいう期間が定められていた場合、1日でもずれると結論が変わってきますので、「いつからいつまでか」を、きちんと厳密に確定する必要があります。
弁済期を1日でも過ぎれば遅延損害金が発生しますが、例えば「1か月後」と決めた場合、いつから遅延損害金が発生するかは、1日単位で細かく期間を計算しなければなりません。
そんなわけで、厳密な期間計算のためには、ルールが必要です。
そのルールのひとつが、「初日不算入の原則」です。
読んで字のごとく、期間計算に「初日は参入しない」という決まりです。
民法140条には、「日、週、月又は年によって期間を定めたときは、期間の初日は、算入しない。ただし、その期間が午前零時から始まるときは、この限りでない。」と規定されており、これが基本的な期間計算のルールとなっています。
改めて確認するまでもないですが、1週間は7日間のことをいいます。
では、「1週間」という期間を設定したとき、「いつから7日間か」ということは、ハッキリさせておかなければなりません。
例えば、民事訴訟において控訴ができる期間は、「判決書の送達を受けた日から2週間」です。
平成25年12月3日の昼3時ごろに、判決書の送達を受けた(郵便屋さんから受け取った)としましょう。
ここで、「送達を受けた12月3日から2週間(14日間)だから、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16日まで」と数えて、16日が経過したらもう控訴ができない!と考えてはいけません。
初日不算入の原則がありますので、3日は除いて、「4、5、6、・・・(略)・・・15、16、17日」と14日数え、17日までは控訴することができます。
まあ、わかり易くいうと、週単位で決めた場合、初日と同じ曜日の日が終期になります。
月単位でも同じですね。
「12月3日から1か月」と決めたら、終期は1月2日ではなく、1月3日になります(カレンダーで数えてみてください)。
ただし、午前0時ちょうどから始まる場合は、初日も算入します。
「平成25年1月1日午前0時から1年間」という期間は、平成25年12月31日で終わりです。
原則に例外はつきもので、この初日不算入の原則にも個別にはいくつか例外がありますので気を付けましょう(例えば、年齢の計算は初日算入です)。
では、今日はこの辺で。
2013年11月12日火曜日
一般法と特別法
司法書士の岡川です。
明らかにネタにする順番としては逆なのですが、一般刑法と特別刑法の話をしたので、もっと大きな概念として、「一般法」と「特別法」のお話。
一般法というのは、ある法律と他の法律と比べたときに、より適用範囲が広いものをいいます。
それに対し、特別法は、他の法律と比べて適用範囲が限定されているものをいいます。
両者は相対的な概念であり、「ほげほげ法は、一般法である」とか「ふがふが法は特別法である」といったように絶対的に決まっているものではなく、「ほげほげ法は、ふがふが法の特別法である」のように、相対的に決まるものです。
例えば、前回までに書いていたとおり、今度制定される「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」というのは、刑法の特別法です。
逆にいえば、刑法(刑法典)というのは、「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」に対する関係で一般法ということになります。
刑法は、およそ犯罪に関する場面で「一般」的に適用されるのに対し、「自動車(略)法律」は、自動車の運転という「特別」の場面でのみ適用されるものです。
他の例を挙げると、商法というのは、会社法の一般法です。
会社法は、「会社」にのみ適用される法律ですが、商法はもっと広く会社以外の商人とか商行為に適用されます。
ただその一方で、商法は、民法の特別法でもあります。
商法が商行為や商人に関する私法上の関係を定めるのに対し、民法は、商人や商行為に限らず、もっと広く一般に私法上の関係について規定したものだからです。
この民法より広い範囲で適用される私法は存在しないので、そのことをもって、「民法は私法の一般法である」というようにいわれています。
特別法というのは、限定的な場面に応じて、一般法を修正するものです。
したがって、特別法と一般法で異なる内容のことが書かれていれば、それは特別法が優先されます。
これを「特別法優先の原則」といいます。
例えば、民法によると、法定利率は年5%とされています(民法404条)。
これに対し、商法541条には、「商行為によって生じた債務」の法定利率は年6%と規定されています。
この場合、「商行為によって生じた債務」という限定された範囲では、特別法である商法の規定が優先することになります。
規定レベルでいえば、「特則」といういい方もします。
「商法541条は、民法404条の特則」のように。
法律には、いちいち、「この法律(規定)は、この法律(規定)の特別法である」とは書いていませんから、法律を適用する際は、特別法(特則)がないかを調べることが大切なのです。
では、今日はこの辺で。
明らかにネタにする順番としては逆なのですが、一般刑法と特別刑法の話をしたので、もっと大きな概念として、「一般法」と「特別法」のお話。
一般法というのは、ある法律と他の法律と比べたときに、より適用範囲が広いものをいいます。
それに対し、特別法は、他の法律と比べて適用範囲が限定されているものをいいます。
両者は相対的な概念であり、「ほげほげ法は、一般法である」とか「ふがふが法は特別法である」といったように絶対的に決まっているものではなく、「ほげほげ法は、ふがふが法の特別法である」のように、相対的に決まるものです。
例えば、前回までに書いていたとおり、今度制定される「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」というのは、刑法の特別法です。
逆にいえば、刑法(刑法典)というのは、「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」に対する関係で一般法ということになります。
刑法は、およそ犯罪に関する場面で「一般」的に適用されるのに対し、「自動車(略)法律」は、自動車の運転という「特別」の場面でのみ適用されるものです。
他の例を挙げると、商法というのは、会社法の一般法です。
会社法は、「会社」にのみ適用される法律ですが、商法はもっと広く会社以外の商人とか商行為に適用されます。
ただその一方で、商法は、民法の特別法でもあります。
商法が商行為や商人に関する私法上の関係を定めるのに対し、民法は、商人や商行為に限らず、もっと広く一般に私法上の関係について規定したものだからです。
この民法より広い範囲で適用される私法は存在しないので、そのことをもって、「民法は私法の一般法である」というようにいわれています。
特別法というのは、限定的な場面に応じて、一般法を修正するものです。
したがって、特別法と一般法で異なる内容のことが書かれていれば、それは特別法が優先されます。
これを「特別法優先の原則」といいます。
例えば、民法によると、法定利率は年5%とされています(民法404条)。
これに対し、商法541条には、「商行為によって生じた債務」の法定利率は年6%と規定されています。
この場合、「商行為によって生じた債務」という限定された範囲では、特別法である商法の規定が優先することになります。
規定レベルでいえば、「特則」といういい方もします。
「商法541条は、民法404条の特則」のように。
法律には、いちいち、「この法律(規定)は、この法律(規定)の特別法である」とは書いていませんから、法律を適用する際は、特別法(特則)がないかを調べることが大切なのです。
では、今日はこの辺で。
2013年10月26日土曜日
故意犯処罰の原則
司法書士の岡川です。
刑法の原則のひとつに、「故意犯処罰の原則」というものがあります。
原則として、故意がある場合のみが犯罪として処罰されるという原則です。
法律の条文に「故意に」などといちいち書かれていなかったとしても、原則として故意を要件としていることになります。
これは、刑法38条1項に規定された実定法上の原則でもあるのですが、そこには、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない」とあります。
「法律に特別の規定がある場合」というのは、基本的には過失致死罪などの「過失犯」を想定しています。
過失犯は例外なので、一般的に過失犯より故意犯のほうが重いと考えられています。
なお、法律に特別の規定を置いたとしても、無過失の行為を処罰対象とすることは許されないと考えられています。
故意も過失もない行為を処罰してはいけないとする原則を、責任主義の原則といいます。
故意には、確定的故意(「あいつを殺す!」といったもの)だけでなく、不確定的故意まで含まれます。
不確定的故意の例としては、「死ぬかもしれないけど、死んでも構わない」というものがあります。
いわゆる「未必の故意」といわれるものです。
故意の成立には「結果発生を認識し、認容していれば足りる」という考え方であり、これを「認容説」といい、判例・通説となっています。
逆に、「死ぬかもしれない」とは認識していたけれども、その結果を認容していなかった場合は、「認識ある過失」といい、これは過失犯になります。
故意とは何か・・・という問題は、単純なようで、実は学説を二分するような(それはもう、「流派の違い」といってもよいくらい)、犯罪論の中でも最重要の論点だったりします。
なので、キリがないのであまり深く立ち入ることはやめておきます。
では、今日はこの辺で。
関連
・法の不知は害する
・違法性の意識
刑法の原則のひとつに、「故意犯処罰の原則」というものがあります。
原則として、故意がある場合のみが犯罪として処罰されるという原則です。
法律の条文に「故意に」などといちいち書かれていなかったとしても、原則として故意を要件としていることになります。
これは、刑法38条1項に規定された実定法上の原則でもあるのですが、そこには、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない」とあります。
「法律に特別の規定がある場合」というのは、基本的には過失致死罪などの「過失犯」を想定しています。
過失犯は例外なので、一般的に過失犯より故意犯のほうが重いと考えられています。
なお、法律に特別の規定を置いたとしても、無過失の行為を処罰対象とすることは許されないと考えられています。
故意も過失もない行為を処罰してはいけないとする原則を、責任主義の原則といいます。
故意には、確定的故意(「あいつを殺す!」といったもの)だけでなく、不確定的故意まで含まれます。
不確定的故意の例としては、「死ぬかもしれないけど、死んでも構わない」というものがあります。
いわゆる「未必の故意」といわれるものです。
故意の成立には「結果発生を認識し、認容していれば足りる」という考え方であり、これを「認容説」といい、判例・通説となっています。
逆に、「死ぬかもしれない」とは認識していたけれども、その結果を認容していなかった場合は、「認識ある過失」といい、これは過失犯になります。
故意とは何か・・・という問題は、単純なようで、実は学説を二分するような(それはもう、「流派の違い」といってもよいくらい)、犯罪論の中でも最重要の論点だったりします。
なので、キリがないのであまり深く立ち入ることはやめておきます。
では、今日はこの辺で。
関連
・法の不知は害する
・違法性の意識
2013年10月3日木曜日
内閣総理大臣の「遷御の儀」参列の可否
司法書士の岡川です。
昨夜、伊勢神宮において、御神体を新宮に遷す「遷御の儀」が執り行われました。
20年に1度の式年遷宮のクライマックスです。
暗くてよく見えませんが、テレビでも映像が出ていました。
今年は絶対に伊勢神宮にお参りに行こうと思っています。
思っていますが、まだ行けていません。
ちなみに、出雲大社のほうも今年は遷宮の年でしたが、こちらは既に行きました(→「出雲大社」)。
さて、このまま神社とか神道とか神話とかの話を続けてもいいのですが、法律っぽい話をしましょう。
「遷御の儀」に安倍総理大臣が参列したというニュースを見て「絶対に批判する人が出てくるだろうな」と思っていましたところ、やはり出てきました。
「戦前回帰」「日本の文化」 遷御の儀に84年ぶり首相(朝日新聞)
「戦前回帰」の意味が分かりませんし、「伊勢神宮の公的位置づけを強め」という批判も根拠がありません。
朝日新聞の記者は、何を思ってこのコメントをとってきたのか分かりませんが、何でもかんでも批判すりゃいいってものではないでしょう。
伊勢神宮は、今年だけで1300万人の参拝が見込まれる日本文化に根差した神社であり、首相だけが参拝してはいけない理由とは何でしょうか。
これが問題になるのは、日本国憲法には、「政教分離の原則」が規定されているからです。
政教分離は、例えば刑法における「遡及処罰の禁止」のように、近代的な法体制の下では一般的に妥当するような普遍的な原則ではなく、各国の法制度、政治体制によって異なります。
現代においても祭政一致という政治体制もありますし、政教分離の原則が採用されている国であっても、緩やかな分離にとどまるところあります。
一口に政教分離といっても、必ずしも、「およそ公的なものと宗教的なものが何らかの接点があってはならない」というような、厳格な分離(完全隔離)を要求するものではないのです。
例えば、イギリスなんかは国教会というものがありますし、アメリカでは、大統領が就任するとき聖書に手を当てて宣誓しますね。
ドイツ連邦共和国基本法(ドイツでは憲法といわず、「基本法」といいます)では、前文でいきなり「神(Gott)」と出てきますし、公立学校での宗教教育についても規定されています。
つまり、「政教分離の原則がどこまで求めているか」は、各国の憲法を中心とする法制度に委ねられます。
そうすると、万国共通の政教分離の原則が存在しない以上、日本において「政教分離の原則に反するか」という問題は、専ら日本国憲法の解釈に委ねられます。
その日本国憲法では、政教分離の原則は次のような規定が存在します。
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(20条1項後段)
「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(20条3項)
「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(89条)
まず、安倍首相が参拝したからといって、伊勢神宮は何らかの特権を受けたわけではありませんね。
それから、おそらく公金は支出されていないでしょうから、89条違反の問題も生じていないはずです。
となれば、20条3項の問題となるわけです。
なお、前提として、内閣総理大臣というのは、国の行政機関ですので「国及びその機関」に該当します。
そして「宗教教育」は関係ないので、「宗教的活動」の問題です。
伊勢神宮の儀式は宗教行為に違いないですが、問題はそこではなくて、そもそも「国の機関が」宗教的活動を行ったかという点が問題です。
靖国の公式参拝についてよく問題となりますが、「内閣総理大臣が『私人として』の参拝する」ことが認められるかという問題ですね。
この点、確かに安倍晋三さんは、国の機関である内閣総理大臣ではありますが、人格や存在そのものが常に国の機関であるわけではありません。
安倍晋三さんがカレーを食べても「国の機関がカレーを食べた」ことにはならないし、安倍晋三さんがトイレに行ったからといって「国の機関が排泄した」わけではありません。
これらはあくまでも、安倍晋三さんという一人の人間が行った活動にすぎません。
同じように、宗教的活動への参加についても、「安倍晋三さんという一人の人間が参加する」ことを観念することは十分可能でしょう。
例えば、安倍晋三さんの親族が亡くなったときに安倍晋三さんが葬儀に参列することもあるでしょうし、安倍晋三さんがご先祖の墓にお参りに行ったりすることもあるでしょう。
これらは、国の機関である内閣総理大臣という肩書を持った安倍晋三さんが行ったとしても、「国の機関が安倍家の先祖にお参りした」ということにはならないと考えられます。
クリスチャンの大臣(麻生財務大臣がそうでしたね。確か)であれば日曜礼拝に行ってもいいし、仮にムスリムの大臣がいれば、定刻になればメッカの方向へ向いて礼拝しても問題がない。
大臣になったら、地元の神社に初詣に行って自分のお金を賽銭箱に投げ入れてはいけないなんていう馬鹿な解釈はありえません。
となると、安倍晋三さんが伊勢神宮に行っちゃダメな理由は無いでしょう。
もちろん、公費を支出したり「職務として参列」したりすれば、それはもう安倍晋三さん個人の行為ではなくて国の機関の行為ではないか、という問題が起こってきます。
そのときはまた、国の機関による宗教的活動はどこまで許されるのかという問題になるでしょう(このときに基準となるのが、いわゆる「目的効果基準」というやつですね)。
ただ、今回の遷御の儀については、菅官房長官が私人としての参列だと会見で述べています。
公費の支出は無かったのでしょう。
それでいいと思います。
そもそも今までも多くの閣僚が毎年正月に伊勢神宮に参拝されているわけです。
そうすると、「内閣総理大臣は伊勢神宮の『遷御の儀』にだけは参加してはいけない」という批判になろうかと思いますが…一見しておかしいこと言ってますよね。
靖国神社については、政治的な背景がいろいろあるので(「私人としても参拝すべきでない」とか逆に「むしろ公人として参拝すべき」との意見も含む)、少し複雑な問題が絡んできますけども、特段の事情(例えば、公費で寄付が行われたとか)でもない限り、内閣総理大臣が伊勢神宮のお祭りに参列したというだけの話で、「政教分離の原則に違反する」なんて騒ぐものではないと思います。
では、今日はこの辺で。
昨夜、伊勢神宮において、御神体を新宮に遷す「遷御の儀」が執り行われました。
20年に1度の式年遷宮のクライマックスです。
暗くてよく見えませんが、テレビでも映像が出ていました。
今年は絶対に伊勢神宮にお参りに行こうと思っています。
思っていますが、まだ行けていません。
ちなみに、出雲大社のほうも今年は遷宮の年でしたが、こちらは既に行きました(→「出雲大社」)。
さて、このまま神社とか神道とか神話とかの話を続けてもいいのですが、法律っぽい話をしましょう。
「遷御の儀」に安倍総理大臣が参列したというニュースを見て「絶対に批判する人が出てくるだろうな」と思っていましたところ、やはり出てきました。
「戦前回帰」「日本の文化」 遷御の儀に84年ぶり首相(朝日新聞)
日本キリスト教協議会の靖国神社問題委員長、坂内宗男さん(79)は「憲法に定められた政教分離の原則に反する行為だ。非常に深刻に受け止めている」と強い調子で批判した。
(中略)
首相の正月参拝は定着しているが、戦後3回あった式年遷宮に首相が参列した例はなく、前回は官房長官らの参列にとどまっていた。坂内さんは「伊勢神宮の公的位置づけを強め、国民にそういう意識を広める狙いがあるのでは」と危機感を募らせる。
「戦前回帰」の意味が分かりませんし、「伊勢神宮の公的位置づけを強め」という批判も根拠がありません。
朝日新聞の記者は、何を思ってこのコメントをとってきたのか分かりませんが、何でもかんでも批判すりゃいいってものではないでしょう。
伊勢神宮は、今年だけで1300万人の参拝が見込まれる日本文化に根差した神社であり、首相だけが参拝してはいけない理由とは何でしょうか。
これが問題になるのは、日本国憲法には、「政教分離の原則」が規定されているからです。
政教分離は、例えば刑法における「遡及処罰の禁止」のように、近代的な法体制の下では一般的に妥当するような普遍的な原則ではなく、各国の法制度、政治体制によって異なります。
現代においても祭政一致という政治体制もありますし、政教分離の原則が採用されている国であっても、緩やかな分離にとどまるところあります。
一口に政教分離といっても、必ずしも、「およそ公的なものと宗教的なものが何らかの接点があってはならない」というような、厳格な分離(完全隔離)を要求するものではないのです。
例えば、イギリスなんかは国教会というものがありますし、アメリカでは、大統領が就任するとき聖書に手を当てて宣誓しますね。
ドイツ連邦共和国基本法(ドイツでは憲法といわず、「基本法」といいます)では、前文でいきなり「神(Gott)」と出てきますし、公立学校での宗教教育についても規定されています。
つまり、「政教分離の原則がどこまで求めているか」は、各国の憲法を中心とする法制度に委ねられます。
そうすると、万国共通の政教分離の原則が存在しない以上、日本において「政教分離の原則に反するか」という問題は、専ら日本国憲法の解釈に委ねられます。
その日本国憲法では、政教分離の原則は次のような規定が存在します。
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(20条1項後段)
「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(20条3項)
「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(89条)
まず、安倍首相が参拝したからといって、伊勢神宮は何らかの特権を受けたわけではありませんね。
それから、おそらく公金は支出されていないでしょうから、89条違反の問題も生じていないはずです。
となれば、20条3項の問題となるわけです。
なお、前提として、内閣総理大臣というのは、国の行政機関ですので「国及びその機関」に該当します。
そして「宗教教育」は関係ないので、「宗教的活動」の問題です。
伊勢神宮の儀式は宗教行為に違いないですが、問題はそこではなくて、そもそも「国の機関が」宗教的活動を行ったかという点が問題です。
靖国の公式参拝についてよく問題となりますが、「内閣総理大臣が『私人として』の参拝する」ことが認められるかという問題ですね。
この点、確かに安倍晋三さんは、国の機関である内閣総理大臣ではありますが、人格や存在そのものが常に国の機関であるわけではありません。
安倍晋三さんがカレーを食べても「国の機関がカレーを食べた」ことにはならないし、安倍晋三さんがトイレに行ったからといって「国の機関が排泄した」わけではありません。
これらはあくまでも、安倍晋三さんという一人の人間が行った活動にすぎません。
同じように、宗教的活動への参加についても、「安倍晋三さんという一人の人間が参加する」ことを観念することは十分可能でしょう。
例えば、安倍晋三さんの親族が亡くなったときに安倍晋三さんが葬儀に参列することもあるでしょうし、安倍晋三さんがご先祖の墓にお参りに行ったりすることもあるでしょう。
これらは、国の機関である内閣総理大臣という肩書を持った安倍晋三さんが行ったとしても、「国の機関が安倍家の先祖にお参りした」ということにはならないと考えられます。
クリスチャンの大臣(麻生財務大臣がそうでしたね。確か)であれば日曜礼拝に行ってもいいし、仮にムスリムの大臣がいれば、定刻になればメッカの方向へ向いて礼拝しても問題がない。
大臣になったら、地元の神社に初詣に行って自分のお金を賽銭箱に投げ入れてはいけないなんていう馬鹿な解釈はありえません。
となると、安倍晋三さんが伊勢神宮に行っちゃダメな理由は無いでしょう。
もちろん、公費を支出したり「職務として参列」したりすれば、それはもう安倍晋三さん個人の行為ではなくて国の機関の行為ではないか、という問題が起こってきます。
そのときはまた、国の機関による宗教的活動はどこまで許されるのかという問題になるでしょう(このときに基準となるのが、いわゆる「目的効果基準」というやつですね)。
ただ、今回の遷御の儀については、菅官房長官が私人としての参列だと会見で述べています。
公費の支出は無かったのでしょう。
それでいいと思います。
そもそも今までも多くの閣僚が毎年正月に伊勢神宮に参拝されているわけです。
そうすると、「内閣総理大臣は伊勢神宮の『遷御の儀』にだけは参加してはいけない」という批判になろうかと思いますが…一見しておかしいこと言ってますよね。
靖国神社については、政治的な背景がいろいろあるので(「私人としても参拝すべきでない」とか逆に「むしろ公人として参拝すべき」との意見も含む)、少し複雑な問題が絡んできますけども、特段の事情(例えば、公費で寄付が行われたとか)でもない限り、内閣総理大臣が伊勢神宮のお祭りに参列したというだけの話で、「政教分離の原則に違反する」なんて騒ぐものではないと思います。
では、今日はこの辺で。
2013年9月24日火曜日
公信の原則
司法書士の岡川です。
前回、公示の原則についてお話ししました。
今日は、それと似た「公信の原則」についてお話しします。
民法の初学者にとって「公示の原則と公信の原則の違いがわからない」ということもよくあるようですが、両者の「違い」というのは、それほど難しいことではありません。
名前は似ていても、内容は比べてみれば全然違います。
公示の原則とは「公示をしておかなければ、自分の権利を完全に主張することができない」という原則でした。
これを第三者視点でいえば、「公示のないところには、権利もないと考えられる」ということになります。
つまり、AからBへ権利が移転していても、登記がBに移転していなければ、第三者Cは「権利者がBという公示がされていないから、Bは権利者ではないんだな」と判断できるということになります。
そのためCは、その土地をAから買ったとしても、そのことで、Bから文句を言われることはありません(なぜなら、Bの権利は公示されていないから)。
公示の原則の下では、「公示をしなければ、権利を主張できない」というにすぎませんので、仮に、内容が虚偽の公示(例えば、勝手に他人の土地を自分名義にする)をしたところで、あなたはその土地を有効に売ることはできません。
これまた第三者視点でいえば、AからDへの権利移転がないのに、登記だけAからDに移転されていた場合(公示内容が虚偽)、その登記を信頼した第三者EがDから土地を購入したとしても、Cは正当な権利者になることはありません。
「公示がなければ権利を主張できない」けれども、それ以上に「公示があれば権利を主張できる」というものではないからです。
これに対し、「公信の原則」とは、「公示があれば、それを信頼して取引した人は、真の権利者と取引した場合と同じように保護する」という原則です。
つまり、公信の原則が採用された場合、上のADEの関係で、無権利者Dから土地を買ったEが、正当な権利者と認められることになります。
このような効力を「公信力」といいますが、日本では登記に公信力はありません(公信の原則が採用されていない)。
したがって、たとえ無権利者が登記名義人になっていても、原則としてその人から有効に土地の所有権を取得することはできません。
まとめると、土地を買おうとする人が、「土地の登記名義がAさんでないなら、Aさんから権利主張されることはない」のが公示の原則で、「土地の登記名義がAさんなら、(仮にAさんが権利者でなかったとしても)Aさんから土地を買えば正当に権利主張できる」のが公信の原則です。
そして、日本の不動産登記制度では、公示の原則は妥当しますが、公信の原則は妥当しません。
なお、言うまでもありませんが、虚偽の登記をする行為は犯罪(刑法の公正証書原本不実記載罪)ですので、絶対にやめましょう。
では、今日はこの辺で。
登記の基礎知識シリーズ
・登記とは何か
・登記はどこでするのか
・登記簿には何が載っているか?
・公示の原則
・公信の原則 ← いまここ
・権利書の話
・登記識別情報の話
前回、公示の原則についてお話ししました。
今日は、それと似た「公信の原則」についてお話しします。
民法の初学者にとって「公示の原則と公信の原則の違いがわからない」ということもよくあるようですが、両者の「違い」というのは、それほど難しいことではありません。
名前は似ていても、内容は比べてみれば全然違います。
公示の原則とは「公示をしておかなければ、自分の権利を完全に主張することができない」という原則でした。
これを第三者視点でいえば、「公示のないところには、権利もないと考えられる」ということになります。
つまり、AからBへ権利が移転していても、登記がBに移転していなければ、第三者Cは「権利者がBという公示がされていないから、Bは権利者ではないんだな」と判断できるということになります。
そのためCは、その土地をAから買ったとしても、そのことで、Bから文句を言われることはありません(なぜなら、Bの権利は公示されていないから)。
公示の原則の下では、「公示をしなければ、権利を主張できない」というにすぎませんので、仮に、内容が虚偽の公示(例えば、勝手に他人の土地を自分名義にする)をしたところで、あなたはその土地を有効に売ることはできません。
これまた第三者視点でいえば、AからDへの権利移転がないのに、登記だけAからDに移転されていた場合(公示内容が虚偽)、その登記を信頼した第三者EがDから土地を購入したとしても、Cは正当な権利者になることはありません。
「公示がなければ権利を主張できない」けれども、それ以上に「公示があれば権利を主張できる」というものではないからです。
これに対し、「公信の原則」とは、「公示があれば、それを信頼して取引した人は、真の権利者と取引した場合と同じように保護する」という原則です。
つまり、公信の原則が採用された場合、上のADEの関係で、無権利者Dから土地を買ったEが、正当な権利者と認められることになります。
このような効力を「公信力」といいますが、日本では登記に公信力はありません(公信の原則が採用されていない)。
したがって、たとえ無権利者が登記名義人になっていても、原則としてその人から有効に土地の所有権を取得することはできません。
まとめると、土地を買おうとする人が、「土地の登記名義がAさんでないなら、Aさんから権利主張されることはない」のが公示の原則で、「土地の登記名義がAさんなら、(仮にAさんが権利者でなかったとしても)Aさんから土地を買えば正当に権利主張できる」のが公信の原則です。
そして、日本の不動産登記制度では、公示の原則は妥当しますが、公信の原則は妥当しません。
なお、言うまでもありませんが、虚偽の登記をする行為は犯罪(刑法の公正証書原本不実記載罪)ですので、絶対にやめましょう。
では、今日はこの辺で。
登記の基礎知識シリーズ
・登記とは何か
・登記はどこでするのか
・登記簿には何が載っているか?
・公示の原則
・公信の原則 ← いまここ
・権利書の話
・登記識別情報の話
2013年9月20日金曜日
公示の原則
公示の原則
司法書士の岡川です。
法学部の民法の授業では、必ず出てくる話ですが、「登記の効力」はどういうものか、という論点があります。
少し専門的になるかもしれませんが、あなたがもし不動産を持っているなら、あるいは、不動産を購入しようとしているなら、知っていて損はない話です。
また、不動産を持っていなくても、民法が試験科目になっている試験を受けようとしているなら、知っていなければ話にならないくらい大事なことなので、再確認しておきましょう。
前回までに書いた通り、登記というのは、権利関係を公示するものです。
では、何のために公示するのでしょうか?
ここでは、不動産登記、すなわち不動産の権利関係の公示制度について書きます。
単純に、「不動産を買っても私の名義に書き換えないと、私の物にならないから」と考えがちですが、実は、そういうわけではありません。
不動産の「所有権の移転」と、「登記の移転(名義書き換え)」は全く別なので、もしあなたが契約(当事者間の合意)により不動産を買ったなら、登記をしなくても(名義を書き換えなくても)その不動産はあなたの物です。
したがって、例えば、あなたが買った不動産に、売主がいつまでも居座り続けて出ていかないなら、あなたは所有権者として売主を追い出すことも可能です。
日本では、不動産の売買(贈与でも同じ)の「効力が発生するため」には、契約さえすればそれで十分であり、別に登記をする必要はないのです。
この点、ドイツ等では登記が不動産売買の効力要件(つまり、登記しなければ売買契約が効力を生じない)となっているのとは異なります。
そういう制度なので、「不動産の所有者」というのは「不動産の名義人」とは必ずしも一致していなくても構いませんし、一致していないことも珍しくありません。
「じゃあ、何か?登記は、司法書士が趣味でやってんのか?」というと、もちろん、登記はただの飾りでも司法書士の趣味でもありません。
確かに、日本では、登記をしなくても不動産の所有権は問題なく移転します。
契約書があれば、そのことを証明することもできます。
しかし、登記をしなければ、その所有権を「第三者に対して主張」することができません。
民法177条は、不動産の物権変動について、「登記によって公示がされなければ、第三者に権利を主張できない」という形(対抗要件主義)で、権利者に対して公示を要求しています。
つまり、売買契約の当事者同士(売主と買主)では、登記なんか必要ないのですが、「第三者」に対して、「私が買いましたー。私が今の所有者ですよー」と言いたければ、あなたの名前を登記簿に載せて、世間一般に知らしめる(公示する)ことが必要なのです。
登記をドイツのように効力要件としたり、日本のように第三者対抗要件としたり、法制度としては色々ありますが、いずれにせよ権利移転を目に見える形(登記)で公示しなければならない(公示しないと何らかの不利益がある)とされています。
このように、自己の権利を完全に主張するために公示を要求する原則を、「公示の原則」といいます。
例えば、売主があなたに土地を売り、あなたが「これでこの土地は私の物だ!」と油断しきっている間に、事情を知らない別の第三者にその土地を売る(これを「二重譲渡」といいます)ということも考えられます。
売主との関係では、あなたはもちろん「何してくれとんねん!」と文句を言う(だけでなく、損害賠償請求をする)ことはできますが、だからと言って、第三者に「あ、その土地私が先に買った物ですから、返してね」と言っても通用しません。
第三者は、あなたに返す必要はないのです。
この場合、さっさと登記を移転しなかったあなたが悪い(もちろん、売主はもっと悪い)。
そういうわけなので、日本で不動産の売買が行われるときは、ほぼ確実に司法書士が取引現場に立ち会います。
司法書士は、当事者が持っている登記に必要な書類を全部預かり、契約の成立と売買代金の支払いを確認したら、その足で法務局(登記所)に向かって登記申請をする、という慣行ができています。
「契約が成立して、代金も支払われたけど、登記名義が移転していない」という状態にならないようにするわけですね。
我々司法書士は、あなたが全世界に向けて、「この土地は私の土地だー!」と声高らかに主張する(公示する)ための手続きを代理しております。
よろしくお願いします。
では、今日はこの辺で。
登記の基礎知識シリーズ
・登記とは何か
・登記はどこでするのか
・登記簿には何が載っているか?
・公示の原則 ← いまここ
・公信の原則
・権利書の話
・登記識別情報の話
司法書士の岡川です。
法学部の民法の授業では、必ず出てくる話ですが、「登記の効力」はどういうものか、という論点があります。
少し専門的になるかもしれませんが、あなたがもし不動産を持っているなら、あるいは、不動産を購入しようとしているなら、知っていて損はない話です。
また、不動産を持っていなくても、民法が試験科目になっている試験を受けようとしているなら、知っていなければ話にならないくらい大事なことなので、再確認しておきましょう。
前回までに書いた通り、登記というのは、権利関係を公示するものです。
では、何のために公示するのでしょうか?
ここでは、不動産登記、すなわち不動産の権利関係の公示制度について書きます。
単純に、「不動産を買っても私の名義に書き換えないと、私の物にならないから」と考えがちですが、実は、そういうわけではありません。
不動産の「所有権の移転」と、「登記の移転(名義書き換え)」は全く別なので、もしあなたが契約(当事者間の合意)により不動産を買ったなら、登記をしなくても(名義を書き換えなくても)その不動産はあなたの物です。
したがって、例えば、あなたが買った不動産に、売主がいつまでも居座り続けて出ていかないなら、あなたは所有権者として売主を追い出すことも可能です。
日本では、不動産の売買(贈与でも同じ)の「効力が発生するため」には、契約さえすればそれで十分であり、別に登記をする必要はないのです。
この点、ドイツ等では登記が不動産売買の効力要件(つまり、登記しなければ売買契約が効力を生じない)となっているのとは異なります。
そういう制度なので、「不動産の所有者」というのは「不動産の名義人」とは必ずしも一致していなくても構いませんし、一致していないことも珍しくありません。
「じゃあ、何か?登記は、司法書士が趣味でやってんのか?」というと、もちろん、登記はただの飾りでも司法書士の趣味でもありません。
確かに、日本では、登記をしなくても不動産の所有権は問題なく移転します。
契約書があれば、そのことを証明することもできます。
しかし、登記をしなければ、その所有権を「第三者に対して主張」することができません。
民法177条は、不動産の物権変動について、「登記によって公示がされなければ、第三者に権利を主張できない」という形(対抗要件主義)で、権利者に対して公示を要求しています。
つまり、売買契約の当事者同士(売主と買主)では、登記なんか必要ないのですが、「第三者」に対して、「私が買いましたー。私が今の所有者ですよー」と言いたければ、あなたの名前を登記簿に載せて、世間一般に知らしめる(公示する)ことが必要なのです。
登記をドイツのように効力要件としたり、日本のように第三者対抗要件としたり、法制度としては色々ありますが、いずれにせよ権利移転を目に見える形(登記)で公示しなければならない(公示しないと何らかの不利益がある)とされています。
このように、自己の権利を完全に主張するために公示を要求する原則を、「公示の原則」といいます。
例えば、売主があなたに土地を売り、あなたが「これでこの土地は私の物だ!」と油断しきっている間に、事情を知らない別の第三者にその土地を売る(これを「二重譲渡」といいます)ということも考えられます。
売主との関係では、あなたはもちろん「何してくれとんねん!」と文句を言う(だけでなく、損害賠償請求をする)ことはできますが、だからと言って、第三者に「あ、その土地私が先に買った物ですから、返してね」と言っても通用しません。
第三者は、あなたに返す必要はないのです。
この場合、さっさと登記を移転しなかったあなたが悪い(もちろん、売主はもっと悪い)。
そういうわけなので、日本で不動産の売買が行われるときは、ほぼ確実に司法書士が取引現場に立ち会います。
司法書士は、当事者が持っている登記に必要な書類を全部預かり、契約の成立と売買代金の支払いを確認したら、その足で法務局(登記所)に向かって登記申請をする、という慣行ができています。
「契約が成立して、代金も支払われたけど、登記名義が移転していない」という状態にならないようにするわけですね。
我々司法書士は、あなたが全世界に向けて、「この土地は私の土地だー!」と声高らかに主張する(公示する)ための手続きを代理しております。
よろしくお願いします。
では、今日はこの辺で。
登記の基礎知識シリーズ
・登記とは何か
・登記はどこでするのか
・登記簿には何が載っているか?
・公示の原則 ← いまここ
・公信の原則
・権利書の話
・登記識別情報の話
2013年9月3日火曜日
罪刑法定主義の派生原理その4「絶対的不確定刑の禁止」
司法書士の岡川です。
罪刑法定主義の派生原理として、これまでに「法律主義」「遡及処罰の禁止」「類推解釈の禁止」の3つを紹介しました。
代表的な派生原理は4つあるのですが、最後の1つは「絶対的不確定刑の禁止」です。
絶対的不確定刑とは、刑法(刑罰法規)に、刑の分量(刑期)が全く法定されていないことをいいます。
現行刑法は、「何年以上(あるいは何年以下)の懲役」のように、法定刑の上限と下限を定めていることが一般的です。
「5年以上の懲役」なら「下限が5年で、上限が20年以下の懲役」を意味しますし、「3年以下の懲役」なら「下限が1か月で上限が3年の懲役」を意味します。
その法定刑の枠内で、裁判官が量刑を決めることになります。
法定刑は完全に確定していませんが、上限と下限の枠が定まっているので、完全に不確定というわけではありません。
こういう定め方を「相対的不確定刑」といいます。
これはもちろん禁止されていません。
これに対し、枠すらも決められておらず、完全に不確定な刑が法定されている場合を絶対的不確定刑といいます。
例えば、「カピバラを殺した者は、懲役に処する」のような具合です。
さらには、「カピバラを殺した者は、刑罰に処する」というふうに、刑の種類すら法定しない場合も、絶対的不確定刑になります。
罪刑法定主義とは、犯罪と刑罰を予め国民に提示しておくことで、国民の自由を保障するものです。
そうすると、「何が犯罪で何が犯罪でないか」だけでなく、「その犯罪にどのような刑罰が科せられるか」も予め法律で定めておくことが必要です。
その行為が「犯罪かどうか」に加え、犯罪だとしたら「どの程度の犯罪か」まで知っておかなければ、行動指針として不十分だといえます。
「どの程度の犯罪か」を示すのが法定刑の種類と量だからです。
したがって、あらかじめ法律で法定刑の「枠」を全く定めずに、刑の選択を裁判官の自由裁量に委ねるということは許されないという原則が「絶対的不確定刑の禁止」の原則です。
なお、「不確定刑」とは、法定刑が不確定であること(裁判官の裁量に委ねられていること)を指す用語です。
「不定刑」とか「不確定法定刑」という場合もあります。
これと似たような概念として、「不定期刑」というものがあります。
これも不確定刑と全く同じ意味(法定刑が不確定であることの意味)で使い、罪刑法定主義の派生原理として「絶対的不定期刑の原則」ということもありますが、両者は一応区別されている概念です。
不確定刑と区別される場合の「不定期刑」とは、裁判官が刑を言い渡す際(=宣告刑)に刑期を定めないことをいいます。
つまり、「不確定刑」とは法定刑の話であり、「不定期刑」とは宣告刑(特に懲役や禁錮といった自由刑)の話ということです。
そして「被告人を懲役に処する」のような、刑期を全く定めない場合を「絶対的不定期刑」といい、「被告人を3年以上5年以下の懲役に処する」のように、枠を定めて言い渡す場合を「相対的不定期刑」といいます。
不定期刑の言い渡しは、犯罪者の更生の程度に合わせて刑期を判断できるという意味で、合理的な面があります。
他方で、被告人の立場を不安定にするものであり、望ましいものではないとも考えられています。
ただ、いずれにせよ、絶対的不確定刑の法定を禁じる罪刑法定主義の問題とは少し次元が異なります(罪刑法定主義の「趣旨」とか「精神」に反する、といった指摘がされる場合もありますが)。
つまり、「絶対的不定期刑の禁止」といった場合も、罪刑法定主義の原則では「絶対的不定期刑の法定」が禁止されているということを意味します。
ややこしいので、刑の種類や分量を定めない法定刑のことを「不確定刑」、刑期を定めない宣告刑のことを「不定期刑」と使い分けるのがスッキリして良いですね。
日本の現行法では、(宣告刑としての)絶対的不定期刑を認めるものはありませんが、少年法上、相対的不定期刑の制度は存在しています。
これは、少年に対する刑罰については、制裁としての面より、教育や更生という面が強調されるからです。
では、今日はこの辺で。
罪刑法定主義シリーズ
1.罪刑法定主義
2.罪刑法定主義の派生原理その1「法律主義」
3.罪刑法定主義の派生原理その2「遡及処罰の禁止」
4.罪刑法定主義の派生原理その3「類推解釈の禁止」
5.罪刑法定主義の派生原理その4「絶対的不確定刑の禁止」 ← いまここ
6.罪刑法定主義の派生原理その5「明確性の原則」
罪刑法定主義の派生原理として、これまでに「法律主義」「遡及処罰の禁止」「類推解釈の禁止」の3つを紹介しました。
代表的な派生原理は4つあるのですが、最後の1つは「絶対的不確定刑の禁止」です。
絶対的不確定刑とは、刑法(刑罰法規)に、刑の分量(刑期)が全く法定されていないことをいいます。
現行刑法は、「何年以上(あるいは何年以下)の懲役」のように、法定刑の上限と下限を定めていることが一般的です。
「5年以上の懲役」なら「下限が5年で、上限が20年以下の懲役」を意味しますし、「3年以下の懲役」なら「下限が1か月で上限が3年の懲役」を意味します。
その法定刑の枠内で、裁判官が量刑を決めることになります。
法定刑は完全に確定していませんが、上限と下限の枠が定まっているので、完全に不確定というわけではありません。
こういう定め方を「相対的不確定刑」といいます。
これはもちろん禁止されていません。
これに対し、枠すらも決められておらず、完全に不確定な刑が法定されている場合を絶対的不確定刑といいます。
例えば、「カピバラを殺した者は、懲役に処する」のような具合です。
さらには、「カピバラを殺した者は、刑罰に処する」というふうに、刑の種類すら法定しない場合も、絶対的不確定刑になります。
罪刑法定主義とは、犯罪と刑罰を予め国民に提示しておくことで、国民の自由を保障するものです。
そうすると、「何が犯罪で何が犯罪でないか」だけでなく、「その犯罪にどのような刑罰が科せられるか」も予め法律で定めておくことが必要です。
その行為が「犯罪かどうか」に加え、犯罪だとしたら「どの程度の犯罪か」まで知っておかなければ、行動指針として不十分だといえます。
「どの程度の犯罪か」を示すのが法定刑の種類と量だからです。
したがって、あらかじめ法律で法定刑の「枠」を全く定めずに、刑の選択を裁判官の自由裁量に委ねるということは許されないという原則が「絶対的不確定刑の禁止」の原則です。
なお、「不確定刑」とは、法定刑が不確定であること(裁判官の裁量に委ねられていること)を指す用語です。
「不定刑」とか「不確定法定刑」という場合もあります。
これと似たような概念として、「不定期刑」というものがあります。
これも不確定刑と全く同じ意味(法定刑が不確定であることの意味)で使い、罪刑法定主義の派生原理として「絶対的不定期刑の原則」ということもありますが、両者は一応区別されている概念です。
不確定刑と区別される場合の「不定期刑」とは、裁判官が刑を言い渡す際(=宣告刑)に刑期を定めないことをいいます。
つまり、「不確定刑」とは法定刑の話であり、「不定期刑」とは宣告刑(特に懲役や禁錮といった自由刑)の話ということです。
そして「被告人を懲役に処する」のような、刑期を全く定めない場合を「絶対的不定期刑」といい、「被告人を3年以上5年以下の懲役に処する」のように、枠を定めて言い渡す場合を「相対的不定期刑」といいます。
不定期刑の言い渡しは、犯罪者の更生の程度に合わせて刑期を判断できるという意味で、合理的な面があります。
他方で、被告人の立場を不安定にするものであり、望ましいものではないとも考えられています。
ただ、いずれにせよ、絶対的不確定刑の法定を禁じる罪刑法定主義の問題とは少し次元が異なります(罪刑法定主義の「趣旨」とか「精神」に反する、といった指摘がされる場合もありますが)。
つまり、「絶対的不定期刑の禁止」といった場合も、罪刑法定主義の原則では「絶対的不定期刑の法定」が禁止されているということを意味します。
ややこしいので、刑の種類や分量を定めない法定刑のことを「不確定刑」、刑期を定めない宣告刑のことを「不定期刑」と使い分けるのがスッキリして良いですね。
日本の現行法では、(宣告刑としての)絶対的不定期刑を認めるものはありませんが、少年法上、相対的不定期刑の制度は存在しています。
これは、少年に対する刑罰については、制裁としての面より、教育や更生という面が強調されるからです。
では、今日はこの辺で。
罪刑法定主義シリーズ
1.罪刑法定主義
2.罪刑法定主義の派生原理その1「法律主義」
3.罪刑法定主義の派生原理その2「遡及処罰の禁止」
4.罪刑法定主義の派生原理その3「類推解釈の禁止」
5.罪刑法定主義の派生原理その4「絶対的不確定刑の禁止」 ← いまここ
6.罪刑法定主義の派生原理その5「明確性の原則」
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