2017年2月23日木曜日

心神喪失により無罪となる場合

司法書士の岡川です。

昨年(2016年)の7月、相模原の障害者施設が襲撃されるという悲惨な事件がありました。
死者の数19人というのは、戦後最多ともいわれています。

容疑者自身にも精神障害があったような指摘もされており、そうなると問題となってくるのが「心神喪失により無罪」となる可能性です。

刑法には、以下のような規定が存在します。

(心神喪失及び心神耗弱)
第39条 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。 

条文上は「心神喪失」の定義はなく、また心理学や精神医学上の用語でもない法律用語なのですが、精神障害によって、ものごとの善悪を判断する能力がない、あるいは善悪を判断できてもそれに従って行動を制御する能力がない状態をいいます。

行為者の刑法上の責任を問うことができる能力を「責任能力」といい、心神喪失者は、責任能力を欠く責任無能力者であるとされます。
ちなみに「心神耗弱」は、上記能力が著しく減退している(「ない」とまではいえない)状態をいい、限定責任能力者であるとされます。

責任能力のない心神喪失者の行為は、「罰しない」とされており、刑事責任を問われません。
つまり、仮に裁判となっても無罪になるわけです。
裁判になっても無罪になることが明らかな場合は、検察はそもそも起訴を控えます。
したがって、起訴するかしないかを決めるためにも捜査段階で精神鑑定が行う必要があるわけで、そのための手続が鑑定留置というものです。

そして、本件で鑑定留置されていた容疑者について精神鑑定の結果が出て、刑事責任を問える(責任能力がある)という結果が出たようです。
厳密にいうと、責任能力があるかないかを結論付けるのは裁判所ですので、精神鑑定の結果はあくまでも医学的な評価として「善悪を判断する能力が無くなるような精神障害は認められなかった」ということになります。

前述のとおり、心神喪失とは、「精神障害によって、ものごとの善悪を判断する能力がない、あるいは善悪を判断できてもそれに従って行動を制御する能力がない状態」ですが、精神鑑定で結論を出せるのは、最初の「精神障害によって」という部分(生物学的要素)です。
これに加えて、弁識能力・制御能力がないこと(心理学的要素)が認定されて最終的に心神喪失かどうかの判断となるわけです。


報道によると、本件の容疑者には「自己愛性パーソナリティ障害」が指摘されているようです。
自己愛性パーソナリティ障害や反社会性パーソナリティ障害(いわゆるサイコパスと類似する概念)等といった「パーソナリティ障害」は、精神障害の一種ではありますが、行動パターンが正常(平均的な人)から幾分偏っている状態であり、それ自体が必ずしも善悪の判断ができなくなるようなものではありません。
したがって、ごく例外的な事例を除き、原則として責任能力があると認定されます。

心神喪失と認定されるような精神障害とは、典型的には統合失調症等の精神病の場合ですが、今回の容疑者にそのような症状はなかったようです。


ところで、なぜ、心神喪失だと人を殺しても処罰されないのか、という素朴な疑問を感じる方も多いと思います。
これはなかなか直感的には理解しがたいものです。

これを理解するには、刑法あるいは刑罰の原理原則をひとつひとつ紐解いていく作業が必要になるからです。

まず大前提として、刑罰というのはそれ自体が重大な人権侵害だということを念頭に置いておかなければなりません。
懲役は個人の自由を奪います(自由刑)し、罰金は個人の財産を奪います(財産刑)。
最も厳しいところだと、死刑は個人の生命を奪います(生命刑)。

そのような「国家による人権侵害」たる刑罰が正当化されるために、刑法には様々な原理原則があります。
例えば罪刑法定主義もそのひとつです。


そして、罪刑法定主義とも並んで重要な原則が、責任主義です。
これは、「責任なければ刑罰なし」とも表現され、要するに犯罪が成立する(したがって刑罰が科される)には、行為者に責任がなければならないという原則です。

心神喪失のように、責任能力のない者の行為については、たとえそれが可罰的に違法な行為であったとしても、責任を問えないために、無罪となるわけです。

責任を問えないとはどういうことか。
そもそも、ここでいう「責任」とは何か。

といった、「責任とは何ぞや?」という話は、ものすごーく難しい話になっちゃうのですが、次回、なるべく簡単に解説したいと思います。

では、今日はこの辺で。

刑法上の「責任」とは何か

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