2017年4月6日木曜日

民法における責任能力(その2)

司法書士の岡川です。

ちょっと時間が空きましたが、前回に引き続き、なぜ責任能力のない人が不法行為責任を負わないのだろうか、という話。

不法行為責任とは、損害賠償債務の発生を意味しますから、これは言い換えると、「なぜ責任能力のない人は、加害行為について損害賠償債務を負わないのか」という問題になります。

さて、民法上の原則としては、「過失責任主義(過失責任の原則)」があります。
不法行為による損害賠償債務の発生根拠が行為者の「過失」に求められるという考え方であり、逆に、行為者に損害賠償責任を負わせるには過失が必要であるという原則でもあります。
もちろん、故意がある場合はなお悪いので、当然に責任を負いますが、不法行為の要件として故意と過失は区別されません。

民法では、この過失責任主義というのが重要な原則、帰責原理として位置づけられます。

ということで不法行為責任の根拠が行為者の過失に求められるのであれば、責任能力についても過失責任との関連で説明をするとよさそうです。
すなわち、「過失」とは、結果の発生を予見できたにもかかわらず不注意で予見しなかったという心理状態であるというのが伝統的な見解です。
結果の発生を予見するには、その前提として一定の精神的能力が必要だと考えられますから、それが責任能力だというわけです。

つまり、故意や過失は、責任能力があって初めて認められる(責任能力を「前提」とする)主観的要素であるということになります。
逆にいうと、責任無能力者について故意や過失を観念できないということになり、したがって過失責任主義の下では、(過失の前提を欠く)責任無能力者に損害賠償責任を負わせることができないという結論に至るわけですね。


ところが、故意や過失を、責任能力を前提とする単なる「心理状態」とは理解せず、今日では、過失を「結果を回避すべきであったのにそれをしなかった」という結果回避義務違反と理解する見解(これは、刑法における旧過失論から新過失論への変遷と同じですね)も有力になっています。

このように理解した場合、「責任能力は過失の前提である」というのは必然ではなくなります。
刑法理論では、むしろ責任能力は過失とは別の独立した要素と理解するのが一般的ですので、責任能力が過失の前提であるというのは自明の理ではないのです。

責任能力が故意・過失と全く別の要素であるならば、責任無能力者について(客観的な)過失が認められた場合に責任を問うとしても、過失責任主義に反しないわけです。

そうなると、過失責任主義との関係から、当然に責任無能力者の損害賠償責任が否定される、とはいえなくなりますね。

そこで近時では、責任能力を欠く者の行為が免責されるのは、「加害者の保護」という政策的な配慮だという説明も有力化しています。


ではさらに進んで、本当に責任能力を欠く加害者を保護することが、公正なのか。
それが政策的に正しいといえるのか、むしろ責任能力を欠く場合も責任を負わすほうが損害の公平な分配といえるのではないか。

そんな議論にも発展していきます。

また長くなったので、そんな議論については次回に回しましょう。

では、今日はこの辺で。

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