2014年3月5日水曜日

憲法の条文は「解釈の余地が少ない」のか?

司法書士の岡川です。

「立憲主義」について解説する記事がありました(なお、この話題は、当ブログでも扱っています→「政府解釈と立憲主義の話」)。

安倍首相「解釈改憲」発言で注目 立憲主義とは? /早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語

解釈改憲をめぐる双方の主張はうまくまとめられていると思います。
私が以前ブログで書いたことも、同じようなことがまるっとそのまま載っていますね。

ただ、途中でなぜか決定的におかしなことがサラッと書かれています。
それは、2頁目最後のこの一文。
なお憲法の条文に「解釈」が入る余地はあまりありません。例えば42条の「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する」に解釈も何もないわけです。

確かに、憲法42条については、ほぼ解釈の余地は無いでしょう(「解釈の余地がない」=「一意に定まらない」という意味として)。
しかし、これをもって「憲法の条文」の一般論として「解釈が入る余地はあまりない」などと解説するのは、あまりにも暴論であり、この一文だけで記事全体の信用性が揺らいでしまいかねない程の、初歩的な事実誤認です。
もしかしたら別の意図があって手が滑って書いちゃったのかもしれませんが、もしそうなら、早く訂正を入れることをお勧めしたいところ。
(せっかくわかり易い記事なのにもったいない。)

憲法に限らず、法律や命令などでも、解釈の余地がないほど具体的な規定というのも無いことは無いでしょう。
しかし、基本的に、条文というのは、ある程度抽象的なもので、解釈の余地が必ずあるものなのです(詳しくは、「法解釈とは何か」)。

例えば、刑法204条の「人の身体を傷害した者は、15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」という、一見して解釈の余地も少なそうな傷害罪の規定であっても、「人」とは何か?(胎児は「人」か?出産途中で頭だけ出てきた子は「人」か?脳死判定を受けた場合も「人」か?自分は「人」に含むか?)とか、「傷害」とは何か?(人の髪を切るのは傷害か?)といった争点があり、それらについて、実際に適用するうえで解釈が必要になります。

刑法は「罪刑法定主義」という大原則があるため、比較的具体的に書かれてはいる(明確性の原則)のですが、その刑法ですら「解釈の余地がない」と断言できるような規定というのは、ほぼ存在しません(「全く存在しない」と言い切ると、もしかしたらあるかもしれないので…)。


ましてや、憲法です。

日本国憲法は、日本という国の法体系上「最高法規」と位置付けられています。
いかなる法令も、憲法に反することは許されません。
わずか103か条の条文で、日本のすべての法令と法の適用を縛るための網をかぶせているものです。

そのため、日本国憲法は、極めて抽象度の高い、したがって他の法令に比べても格段に解釈の余地が広い法なのです。

例えば、1条の最初、「天皇は、日本国の象徴であり」という部分を読んだだけで「象徴とは何か」という解釈の問題がイキナリ出てきます。
いや、もっといえば、日本国憲法には、1条より前に「前文」という部分があるのですが、この部分の冒頭から解釈が始まります。


このように、「あまりない」どころか、「解釈の余地だらけ」なのが憲法です。
違憲判決だろうが合憲判決だろうが、裁判所で憲法判断が出されるのは、解釈に争いがあるからです。


もし仮に、「憲法に解釈の余地がない」ことを前提に、「解釈改憲は立憲主義に反する」というふうに考えている方がおられるとすれば、それは、議論の前提から間違っています。
前提が(はっきり言えば、致命的に)間違っているのでそれではまともな議論になりません。

前提事実の認識をガラッと変えて、「解釈の余地だらけ」であることを前提にしてから、「行政解釈の変更は、どこまで許されるのか」というふうに考え直してみましょう。

では、今日はこの辺で。


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