2017年4月25日火曜日

民法における責任能力(その3)

司法書士の岡川です。

お久しぶりです。
また長いこと放置してましたが、前回に引き続いて今日もまた責任能力の話。
まだ終わってなかったんですね。


さて、民法(私法)上、責任能力が欠ける場合に不法行為責任(損害賠償責任)が否定される根拠として、「過失責任の原則だから」という説明は「当然の理」ではなくなった…というのが前回までのお話(もちろん、そういう説明ができないこともないのですが)。


つまり、必ずしも「過失の成立を認める前提として責任能力を有していなければならない」ともいえない。
そうすると、不法行為の成立要件として責任能力を求める理由は、専ら「加害者の保護」のため、もっといえば政策的な要請によるものであるという説明が有力化しています。


では、価値判断の問題として、責任能力を欠く加害者は保護すべきなのか(保護すべき政策的理由があるのか)が問われます。


確かに、古代より現代に至るまで、責任能力を欠く場合に、刑事上・民事上の責任を問わないという制度は存在し続けてきました。
つまりそれが基本的に妥当であるという価値判断が維持されているわけです。

他方で、そこに異論が全くないかというとそうでもなく、責任無能力者の行為による被害事例がでればやはり制度そのものにも疑問が生じてきます

この点について、改めて考えるきっかけとなりうるのが、JR東海で起こった認知症患者の列車衝突事故です。

事件の詳細は過去の記事に譲りますが、概要としては、認知症患者と列車が衝突してJR東海に損害が発生したために、民法714条に基づいて家族が損害賠償を請求されたが、最高裁判所は、家族の「監督義務者」としての責任を否定したというものです。

前提として、衝突した認知症患者自身は責任無能力者として責任を問われません。
そこで、加害者が責任能力を欠く場合、被害者救済のために、その監督義務者が損害賠償責任を問われるというのが民法714条の趣旨です。

712条と714条をセットで考えると、たとえ責任無能力者の行為として加害者本人の責任が否定されたとしても、その家族等が714条責任を負うことで、結果的に被害者の損害が填補され、損害の公平な分担という不法行為制度の理念・趣旨が全うされることになります。

ところが最高裁は、JR東海事件の判決において、714条で責任を問われる範囲をかなり制限的に解して(例えば、家族や成年後見人であるという理由で直ちに監督義務者になることはない)家族の損害賠償責任を否定したのです。

最高裁が示したような解釈に基づけば、714条責任が成立する場合がほとんど存在しなくなるという批判もありますが、むしろ、家族や成年後見人だからといって、当然のように他人の行為に関して過大な責任を問われる方が不当であり、714条責任が成立しないのであればそれは良いことだ、といえるわけです。

しかし他方で、今回は被害者が超大手の鉄道会社であり、結論として損害賠償請求が認められなくても仕方ない、と理解されていますが、被害者が個人だったらどうなるかという問題も残されています。
例えば、認知症患者が自転車に乗ってて、高速で児童の列に突っ込んで死亡(又は大怪我を)させたとしたら、感情的にも「判断能力なかったんだから仕方ないよね」では済まない問題になります。


ここで、714条を広く解することで家族等の責任を問うという方向性もあり得ますが、最高裁の判断にあるとおり、個人責任が原則の現代社会において、家族や成年後見人が当然のように責任を問われるべきではない。
加害者の家族等が不当な責任を負うべきでないという点においては、被害者が会社だろうが個人だろうが違いはないはずです。


そうすると、被害者の損害は誰が填補するのが公正・公平だといえるか。

社会的(公的)救済という方向性を模索するのもひとつの方法です。
被害者は存在するけど加害者に責任を問えないのであれば、社会として(公的な保障制度によって)その損害を負担しようという発想です。


一方で、そもそも責任能力制度を疑問視し、責任無能力者(重度の精神障害者等)であっても不法行為責任を問いうる制度にすべきという主張もあります。

現行法でも、例えば自動車賠償保障法(自賠法)3条の運行供用者責任には民法713条の適用がないというのが判例通説であり、したがって、交通事故の加害者は責任無能力であっても損害賠償責任を負います。

被害者救済の観点から言えば、特殊な責任だけでなく、もっと一般的に、あらゆる不法行為について責任能力の有無を問わずに責任を負わせるべきではないか。

一般的な個人賠償責任保険は、責任無能力者が他人に損害を与えても保険金は出ません。
これは、責任無能力者は損害賠償責任を負わないので、保険会社としては保険金を出す理由がないからです。
もし精神障害の有無にかかわらず損害賠償責任を負うということになれば、賠償責任保険もそれに対応することになるでしょう。


諸外国の立法例では、フランス民法のように、判断能力の有無にかかわらず不法行為責任を負うという規定も存在します。
また、判断能力の欠如は免責事由になることを前提に、最終的には責任無能力者にも(一部)損害賠償責任が認められる場合もあるという規定も存在します(ドイツ民法など)。


つまりは、「責任無能力者は損害賠償責任を負わない」ことが(近代法における)絶対的な原則ではないことが分かります。

「責任能力」の問題については、世間的には大きな犯罪が起こった場合に(すなわち、刑法上の責任能力が)問題となりますが、民法上の責任能力制度の是非についても、議論が本格化しても良いのかもしれません。

まあ、今のところそういう動きはなさそうです。



というわけで、長いこと連載してきた(でも投稿数は5回だけ。何でかな?)責任能力シリーズもこれでひとまず終わり。

次からは、民法改正の話でも書くかな。
書かないかもね。

では、今日はこの辺で。

責任能力シリーズ
1.心神喪失により無罪となる場合
2.刑法上の「責任」とは何か
3.民法における責任能力(その1)
4.民法における責任能力(その2)
5.民法における責任能力(その3) ← いまここ

2017年4月6日木曜日

民法における責任能力(その2)

司法書士の岡川です。

ちょっと時間が空きましたが、前回に引き続き、なぜ責任能力のない人が不法行為責任を負わないのだろうか、という話。

不法行為責任とは、損害賠償債務の発生を意味しますから、これは言い換えると、「なぜ責任能力のない人は、加害行為について損害賠償債務を負わないのか」という問題になります。

さて、民法上の原則としては、「過失責任主義(過失責任の原則)」があります。
不法行為による損害賠償債務の発生根拠が行為者の「過失」に求められるという考え方であり、逆に、行為者に損害賠償責任を負わせるには過失が必要であるという原則でもあります。
もちろん、故意がある場合はなお悪いので、当然に責任を負いますが、不法行為の要件として故意と過失は区別されません。

民法では、この過失責任主義というのが重要な原則、帰責原理として位置づけられます。

ということで不法行為責任の根拠が行為者の過失に求められるのであれば、責任能力についても過失責任との関連で説明をするとよさそうです。
すなわち、「過失」とは、結果の発生を予見できたにもかかわらず不注意で予見しなかったという心理状態であるというのが伝統的な見解です。
結果の発生を予見するには、その前提として一定の精神的能力が必要だと考えられますから、それが責任能力だというわけです。

つまり、故意や過失は、責任能力があって初めて認められる(責任能力を「前提」とする)主観的要素であるということになります。
逆にいうと、責任無能力者について故意や過失を観念できないということになり、したがって過失責任主義の下では、(過失の前提を欠く)責任無能力者に損害賠償責任を負わせることができないという結論に至るわけですね。


ところが、故意や過失を、責任能力を前提とする単なる「心理状態」とは理解せず、今日では、過失を「結果を回避すべきであったのにそれをしなかった」という結果回避義務違反と理解する見解(これは、刑法における旧過失論から新過失論への変遷と同じですね)も有力になっています。

このように理解した場合、「責任能力は過失の前提である」というのは必然ではなくなります。
刑法理論では、むしろ責任能力は過失とは別の独立した要素と理解するのが一般的ですので、責任能力が過失の前提であるというのは自明の理ではないのです。

責任能力が故意・過失と全く別の要素であるならば、責任無能力者について(客観的な)過失が認められた場合に責任を問うとしても、過失責任主義に反しないわけです。

そうなると、過失責任主義との関係から、当然に責任無能力者の損害賠償責任が否定される、とはいえなくなりますね。

そこで近時では、責任能力を欠く者の行為が免責されるのは、「加害者の保護」という政策的な配慮だという説明も有力化しています。


ではさらに進んで、本当に責任能力を欠く加害者を保護することが、公正なのか。
それが政策的に正しいといえるのか、むしろ責任能力を欠く場合も責任を負わすほうが損害の公平な分配といえるのではないか。

そんな議論にも発展していきます。

また長くなったので、そんな議論については次回に回しましょう。

では、今日はこの辺で。